概要
戦名 | 甲州征伐(こうしゅうせいばつ) |
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時期 | 天正10年(1582年)2月 - 3月 |
戦地 | 甲斐・信濃・駿河・上野の武田領 他 |
両軍と各陣営の戦力 | |
結果 | 織田・徳川・北条連合軍の勝利。武田・上杉連合軍の敗北、甲斐武田氏滅亡。 |
(※印の付記された武将は武田軍より離反した者を指す)
背景
武田信玄と織田信長は、かつては同盟を締結しながらもやがて徳川家康の動向を巡る外交折衝の食い違い、さらには東美濃における境目問題などからその関係も手切れとなり、元亀3年(1572年)晩秋には信玄による西上作戦が始まったことで、完全な敵対関係へと転じる格好となった。
その途上で信玄が没した後も、跡を継いだ武田勝頼は積極的な外征を通して織田・徳川に対抗し、両者の抗争は一進一退の推移を辿ることとなるが、天正3年(1575年)の長篠の戦いにおいて織田・徳川連合軍が武田軍に大勝を収めると、その流れにも次第に変化が現れるようになった。
長篠の合戦において、先代からの重臣も含めた多数の将兵を喪い手痛い敗北を喫した武田方が、領国の動揺の沈静化と外交政策の見直しを余儀なくされる一方、対する徳川方は諏訪原城や二俣城といった遠江方面における重要拠点の攻略や、武田方が手中に収めていた高天神城への締め付けを通して、武田方への反攻をより強めていった。また織田方も、先の西上作戦で武田方に奪われていた岩村城を奪還せしめるなど、東美濃における勢力の巻き返しを進めていた。
こうした状況を打開すべく、勝頼は足利義昭の仲介の元、先代より敵対関係にあった上杉謙信と和睦(甲越和与)を結び、さらに毛利輝元とも同盟(甲芸同盟)を締結。これにより武田・上杉・毛利・本願寺による第三次信長包囲網が形成されるに至った。
この諸勢力との連携は、松永久秀や荒木村重といった傘下の武将の離反や、丹波・播磨などにおける動揺を誘発し、さらには上杉軍が手取川の戦いにて織田軍に対して勝利したことにより、武田信玄存命のときのように織田方を再び劣勢に陥れることに成功した。
だが、天正6年(1578年)にその一角を担っていた謙信が急死したことで、外交の面で盛り返しつつあった武田方の前途にもにわかに暗雲が立ち込めることとなる。
謙信の死後、彼の2人の養子(上杉景勝と景虎(北条三郎))が家督争いを始めた(御館の乱)。景虎は北条氏政の実弟であったため、これは実質上杉と北条の争いだった。
これは、上杉とも北条とも友好関係を持つ勝頼を困惑させた。勝頼は、武田・上杉・北条の三者が連携して織田に圧力を加えることを望んでいたためである。
そんな中、北条が勝頼に景虎要請を支援しておきながら、自身は佐竹・宇都宮連合軍との戦いを優先して景虎支援をしないという事態が起きる。これにより、勝頼は北条に対して不信感を抱くようになった。さらに上杉家臣のほとんどが景勝を支援し、景勝方が金蔵を抑えたため、景虎では上杉領を経営できないことが判明した。
こうして勝頼は、上杉と北条の両者との盟約を尊重して景勝と景虎の和睦を調停した。
が、結果としてこれが武田方にとって思わぬ躓きとなってしまった。景虎・景勝間の和睦は程なく破綻、勝頼も依然としてうち続く遠江方面での徳川方の攻勢に対応するため、調停者としての役割を十分に果たせぬまま、御館の乱は上杉景勝の勝利という形で幕引きを迎えたのである。
前述の通り、景虎支援を勝頼に要請しておきながら自身は消極的だった北条氏政は、景虎敗死の責任を勝頼に押し付け、武田と断交。さらに北条は徳川と同盟を締結し、先代以来の同盟関係(甲相同盟)も破綻を迎えた。一方の武田も、これに対抗すべく異母妹の菊姫(武田信玄の娘)を上杉景勝に嫁がせるさせることで、武田と上杉の同盟(甲越同盟)を締結。さらに関東方面においても、佐竹義重との同盟(甲佐同盟)や宇都宮国綱、佐野宗綱や里見義頼らとの連携を通して北条への牽制に当たった。
このように徳川・北条との対立が続く中、勝頼は戦局を打開するべく織田に対して和睦を持ちかけようと試みていた(信長が勝頼に和睦を持ちかけていた時期があったため)。実際にその一環として、かつて岩村城陥落の折に人質として甲府に送られていた信長の五男・織田信房を信長の元へ返還し、彼を仲介役として和睦交渉の進展を図ろうとしていた節も見られる(甲江和与)。
しかし、対する信長に最早武田との和睦に応じる意思はなく、同時期には高天神城攻略に当たっていた家康に対し「城兵の降伏を許さぬように」との書状を送っている。これは勝頼が和睦交渉への影響を懸念して、高天神城に後詰を送るのを躊躇することを見越してのものであったようで、その見立て通り勝頼が後詰を派遣できずにいた結果、高天神城は天正9年(1581年)春に落城。岡部元信を始めとする守将らも軒並み命を落とした(第2次高天神城の戦い)。
この高天神城への救援失敗とそれによる陥落は、武田方の威信を致命的に失墜させることにも繋がった。織田・徳川は高天神城の落城と、これを勝頼が「見殺しにした」ことを盛んに喧伝し、武田傘下の国人衆の動揺を誘う工作に出るなど、ここに至って勝頼は劣勢に立たされたのである。
戦局の推移
甲州征伐の始まり
天正9年の暮れ、正月より築城が続けられていた武田氏の新たな本拠・新府城へと勝頼が移る一方で、信長は予てから明智光秀を通して進めていた朝廷への働きかけにより、正親町天皇から勝頼への「朝敵」認定を引き出すことに成功し、年が明けてからの武田領への攻撃を家臣にも通告している。
そして翌天正10年(1582年)2月、織田軍の調略によって武田家臣・木曾義昌(勝頼の義弟)が勝頼から離反した。その背景には前述の高天神城陥落により武田の先行きに不安が見え出したこと、そして新府城造営に伴う重税と賦役の増大への不満があったと見られている。
義昌の反逆を前に、勝頼は人質としていた義昌の老母や嫡男らを処刑の上、武田信豊(武田信繁の息子)率いる軍勢を木曽谷に派遣するが、これをきっかけに、信長は徳川家康や北条氏政・氏直と共同で武田領への侵攻を開始。これが甲州征伐の始まりである。
織田・徳川・北条の進撃
武田領侵攻に当たり、織田方は信長より家督を譲られていた織田信忠を中心とする「信忠軍団」が、その主力を担っている。
2月12日に岐阜を発った信忠の軍勢は、翌々日には岩村城に着陣し、そこからまず先遣隊として森長可らの率いる先遣隊が木曽峠を越えて信濃へと侵攻を開始。先遣隊にはさらに本隊より目付役として河尻秀隆も派遣された。大将の信忠や毛利秀頼、それに滝川一益らからなる本隊は飯田を経て大島へと進軍。
木曾口は既に、前述の通り木曾勢が織田方に寝返っており、伊那街道沿いの武田傘下の勢力も、小笠原信嶺を筆頭に戦わずして軒並み織田の軍門に降った。
一方、徳川方も家康自ら率いる軍勢が2月20日に浜松を発し、掛川を経て依田信蕃の守る田中城を包囲しつつ駿府城へと入城。さらに当時駿河を守っていた穴山梅雪(信君)への調略に当たり、これを武田方より離反させ駿河領を確保することにも成功している。
その駿河へは、東より北条の軍勢も攻め入りつつあった。2月下旬から3月にかけて、北条軍は戸倉城など駿河の武田方の拠点を落とし、さらに沼津方面へと進出。さらに上野方面においても、北条氏邦(氏政の三弟)が厩橋城の北条高広や岩櫃城の真田昌幸に圧力をかけつつ、当地への侵攻に着手している。
武田方の動向
こうした侵攻を前にして、武田方は満足な抵抗に及ぶことが出来なかった。
前述の通り、木曾の反逆に際して派遣した軍勢は、地の利を生かした木曾勢の抵抗により敗退を喫し、飯田においても飯田城主の保科正直が城を捨てて高遠城へと逃れ、これが下伊那の大島城に拠っていた武田信廉(信玄の次弟)の撤退という事態までも引き起こした。
その背景には、侵攻が始まって間もない2月14日に発生していた、浅間山の噴火も大きく関係しているとされる。古くから東国に危機が迫る兆しとの言い伝えのあった浅間山の噴火は、「勝頼が天から見放された」という認識を領内の国人衆や領民たちに持たせることに繋がり、組織だった抵抗を困難にしたのである。
そのような状況にあって唯一、頑強なまでの抵抗を見せたのが高遠城であった。
この時、高遠城を守っていたのは勝頼の異母弟・仁科信盛(盛信)である。信盛は織田方からの開城を促す使者の耳を削いで送り返すと、十倍以上もの織田軍に対して籠城戦を展開。織田軍に少なからぬ損害を与えたものの数的不利は覆せず、本隊と別行動を取っていた森長可が三の丸の屋根板を引き剥がして城内へ射撃を加え、これを陥落せしめたのもあり、信盛以下守備兵らは奮戦の末に自刃もしくは討死し、高遠城も開戦したその日のうちに織田方の手に落ちた。
城跡に現在も残る桜は、この時の激戦で討死した兵の血を吸っているがゆえに他の桜よりも花の色が濃い、という言い伝えが残されている。
新府城放棄
信濃方面での急速な侵攻だけでなく、駿河においても前述の穴山梅雪の離反が発生したことで、本国甲斐までもが危機的状況に曝される格好となった。
3月に入ると勝頼の義弟である上杉景勝が、重臣・上条政繁を武田救援のために派遣しており、勝頼はこの時景勝の救援に感謝する書状を送っている。また越中においても、上杉方の小島職鎮らが織田方の富山城を占拠し、魚津城を包囲していた柴田勝家勢の後方を撹乱するという事件が発生しており、これも上杉による武田方への支援の一環であるとされるが、いずれにしても状況の打開には至らなかった。
事ここに至り、勝頼は本拠として移ってきたばかりの新府城の放棄を決定。新府城はこの時点でもまだ完成には至っておらず、さらに直前まで在陣していた諏訪上原城から新府城に退くまでの間に、本軍の兵が1/10にまで減るなど、籠城戦を展開するには困難な状態にあったからである。
『甲陽軍鑑』によるとこの時、真田昌幸が自身の領する上野岩櫃城へと逃れることを献策したものの、長坂虎房(釣閑斎)の主張によって退けられ、小山田信茂が守る岩殿城へ移ることになったと記されているが、一方で『甲乱記』においては当初より、勝頼自ら信茂に対し小山田領の郡内へ逃れることを諮ったとされる。
そもそも新府城から岩櫃に至るには、城の置かれていた韮崎と佐久とを結ぶ街道(佐久往還)を経由する必要があったと見られるが、この時点で織田軍は高遠城を経て上原城にまで達しており、佐久往還を抑えるのも時間の問題であった。仮にこの状況で岩櫃へ逃れる動きを見せた場合、勝頼一行もたちまち織田軍に捕捉されていただろうと見る向きもある。
ともあれ3月3日に新府城を放棄する際、勝頼に付き従う将兵はわずか200人足らずにまで減っていたという。
そんな勝頼を後目に、ほぼ同時期の3月5日には信長も明智光秀・筒井順慶らを伴って安土を発ち、翌日には岐阜において仁科信盛らの首級の検分に当たった。信忠率いる本隊も、7日には甲府入りを果たしている。
天目山の戦い
前述の通り、郡内の小山田信茂の元を目指していた勝頼らの一行はしかし、目論見通り岩殿城に入ることは叶わなかった。その途上で信茂もまた織田方への寝返りを決め、一行の郡内入りを阻む動きを見せたからである。信茂の裏切り、そして後から迫る滝川一益ら率いる追手を前に、離散する者も続発した勝頼一行は郡内入りを諦め、武田氏ゆかりの地である天目山へと逃れた。
しかし3月11日、天目山を間近にしながらその麓の田野村にて、勝頼一行は織田方の追手に捕捉されるに至る。土屋昌恒、安部宗貞(阿部勝宝)らが主君を守るべく奮戦し、前者は「片手千人斬り」の異名を残すなど僅かな手勢で獅子奮迅の活躍を見せたと伝わる。とはいえ衆寡敵せずな状況に変わりはなく、命運尽きたと悟った勝頼は正午前に自害。継室の北条夫人(桂林院)や嫡男の信勝、それに前出の土屋、安部の他にも長坂虎房や跡部勝資、大熊朝秀らといった家臣など、ここまで勝頼に付き従ってきた70名前後の者たちもまた、自刃もしくは討死という形で殉じていった。
この時、息子の信勝が元服の儀を済ませていなかったことから、勝頼は武田氏に伝わる当主の証であった「楯無」の鎧を信勝に着せて元服の儀を執り行い、然る後に父子共々自刃したという悲話が残されている。
かつて天目山では、15世紀前半にも時の武田氏当主・武田信光が、上杉禅秀の乱での敗北の末に自害、武田氏も一時断絶を迎えたという経緯があり、勝頼らの最期により天目山は二度に亘って武田氏の「終焉の地」となったのである。
その後の経過
勝頼自害の際に存命であった海野信親(龍芳、信玄の次男)、それに前出の武田信豊や武田信廉ら一門の者たちも、程なく自刃もしくは残党狩りによって落命しており、源義光以来の名門であった甲斐武田氏の嫡流はここに滅亡の時を迎えた。他方で、信玄の七男である武田信清のように難を逃れ、武田の血統を残した(※)一門の者もわずかながら存在する。
残党狩りの手は武田一門のみならず、諏訪頼豊や朝比奈信置といった家臣らにも及び、織田方に寝返った小山田信茂でさえも、「古今未曾有の不忠者」との信忠の裁断により、家族や家臣らと共に甲府の善光寺にて処刑されるという悲惨な末路を辿った。前述の通り、同じように勝頼を自領に迎え入れようとしながらも叶わなかった真田昌幸が、後に滝川一益の与力に附けられるという形で命脈を保ったのとは対照的でもある。
一方で前出の依田信蕃のように、この時点でもなお抵抗を続ける者もあったが、信蕃も穴山信君の勧告によって開城し、後に家康の計らいで遠江へと逃れることとなった。彼に限らず、武田遺臣の中には残党狩りを避けて家康の元に潜伏した者が多くおり、これらの人材は後に徳川家臣団へと取り込まれていくこととなる。
勝頼が自害した折、未だ岩村城にあった織田信長が旧武田領内に入ったのは、それから1週間ほど経ってのことであった。19日に諏訪に達した信長は、ここで甲州征伐に参加した配下の諸将らの論功行賞を行っている。
その中で、旧武田領のうち穴山領を除く甲斐一国は河尻秀隆に、駿河一国は徳川家康に、上野や信濃小県郡などは滝川一益に、森長可には信濃の高井・水内・更科などの諸郡が分配された。また本領を安堵された穴山梅雪には、彼の嫡子で武田信玄の外孫に当たる勝千代に、武田の名跡を継がせることも信長より許されている。
一方で、北条氏政には甲州征伐での働きに対し特段の恩賞は与えられず、甲州征伐以前より旧領回復を約束されていたはずの小笠原貞慶(小笠原長時の子)も、その旧領が木曾義昌への恩賞として与えられたために約束を反故にされる結果となった。
信長はこれらの諸将に新たに与えた領地の統治を任せ、自らは4月になると甲斐へ入り、甲府にてしばし逗留した後、東海道を経て4月下旬頃には安土へと凱旋を果たした。その間には生涯最初で最後となる富士山を間近に見たとされる他、駿府において家康からの饗応も受けており、その返礼として後に家康は穴山梅雪と共に安土へと招かれることとなるのである。
一方で、信忠勢による武田残党の掃討はこの時期もなお続いており、彼らが逃げ込んだ恵林寺も引き渡しを拒んだことで焼き討ちに遭い、住職の快川紹喜は「心頭滅却すれば火もまた涼し」の言を残して燃え盛る山門と運命を共にしたという。
こうした織田政権による武田残党の掃討や、武田旧領の統治体制の整備は、結果として十全に果たされることはなく、やがて信長の横死によって甲斐・信濃・上野は政治的に空白地帯と化し、周辺勢力や国人たちによる新たな争乱が繰り広げられることとなる・・・。
ちなみに甲斐武田家は、後に高野山を経て義兄・上杉景勝の元へ身を寄せてた武田信清(信玄の七男)に端を発する米沢武田家が現在に至るまで信玄の血統を伝えている。
織田信忠・武田の姫を愛し、武田を滅ぼした男
甲州征伐から遡ること15年ほど前の永禄年間、織田氏と武田氏は同盟関係の強化を図ろうとしていた。そして、織田信忠(信長の嫡男)と松姫(武田信玄の娘)との婚約を成立させており、実際に顔を合わせることこそなかったものの、文通を通して両者は精神的な繋がりを育んでいたと見られる。
だが、武田と織田の同盟破綻に伴い、両者の縁談も解消されることとなる。
(画像右が信忠で、左が松姫)
しかし、それでも二人は両思いであったようで、それと関連しているかは定かではないが、その後も信忠は正室を持たず、松姫もまた独身を貫いていた。
そして時は流れて織田氏が甲州征伐に踏み切る中、信長がその総大将に任命したのは、他でもない信忠であった。
この時の信忠の心情を知る術はないが、ともあれこの甲州征伐により信忠と松姫の運命も俄に交錯することとなる。というのもこの頃、松姫は同母兄の仁科盛信の庇護のもと高遠城下にあり、程なく信忠率いる織田軍も高遠城へと迫ってきたからである。
松姫が高遠城下にいることを信忠が把握していたのかどうかは定かではないが、信忠は前述の通り攻城に先んじて開城を促し、その交渉に当たっている最中に盛信の計らいで松姫が新府城へと逃されたことにより、結果として戦禍に巻き込まれる形で松姫が命を落とすという最悪の事態は回避された。
余談だが、信忠と盛信は生年が同じである。そして後述するが、没年も同じになるのである。
その後、松姫は勝頼らとは別行動を取り、甥の仁科信基(盛信の遺児)らと共に甲斐から相模を経て、武蔵八王子の金照庵(現・東京都八王子市上恩方町)に身を寄せることとなるのだが、程なくして松姫の元に思わぬ申し出が舞い込んでくることとなる。
実は甲州征伐の後、信忠は松姫の行方を捜索し続けており、彼女が金照庵にいることを突き止めるや、使者を遣わし京都の妙覚寺(信忠が在京の折に度々宿所としていた)に迎えたいとの旨を伝えたのである。
残念ながらこの時のやり取りも含め、信忠と松姫との間で送り合われた手紙は未だ発見には至っておらず、現存しているのかも定かではない。ただ、この信忠からの申し出を松姫も承諾したのは確かであり、直ちに金照庵を発って京都への旅路についた。
・・・しかし、ここで予想外の事態が起きる。
織田家重臣・明智光秀が突如謀反(本能寺の変)を起こし、信長が自害。この時妙覚寺にて松姫の到着を待っていたと見られる信忠もまた明智軍の攻撃に遭い、二条新御所へ移って奮戦の末に自刃して果てた。これにより、信忠と盛信の生没年は結果的に同じになった。
こうして信忠と松姫は、両思いだったにもかかわらず、遂に出会うことはできなかったのである。
この報せを受けた松姫は、八王子へと戻った後に出家して「信松尼」と名乗った。信松尼の「信」の一字の由来は、松姫の父・武田信玄と婚約者・織田信忠の名前から来ていると推測できる。そして、「信松院」という寺院を開基し、武田一族と織田信忠を弔った。そして松姫は、一生独身を貫いた。
ちなみに信松院の雰囲気は、安土城(織田家の居城)に似ている。
(詳細は、この漫画を参照)
もちろんこれは偶然だが、信忠の没後も松姫と信忠が心の中で通じ合っていたというように感じることができる。
関連人物
武田方
仁科盛信 武田信廉 武田信豊 依田信蕃 真田昌幸 土屋昌恒 上条政繁 小島職鎮