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跡部勝資

あとべかつすけ

跡部勝資とは、甲信地方の戦国武将。武田信玄・勝頼と、二代に亘って甲斐武田氏に仕え、外交・領国支配の双方で手腕を振るった。(生年不明-1582年)
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概要

戦国期の甲斐武田氏の家臣の一人で、武田家中においては主に出頭人、即ち当主の側近としての政務への参画や、周辺の国人や大名との取次役としてその手腕を発揮した。当時の甲斐武田氏は、甲斐のみならず信濃・上野へもその版図を拡大しつつあり、その傘下に収まった国衆の統率や他国との外交において、勝資や土屋昌続原昌胤のような取次の存在は当主の意思伝達を円滑に行う上で重要であった。

こうした立場ゆえに、主君である武田信玄勝頼の父子からの信任も厚く、勝頼が当主になってからは300騎持ちの侍大将として、山県昌景春日虎綱(高坂昌信)と並ぶほどの動員力を有する有力者となった。


一方で、前述した勝資を始めとする出頭人による政治の確立と、それに伴っての取次の寡占化は、必然的に甲斐国外で「城代」として、武田領の統治を行う古参の重臣(馬場信春内藤昌豊真田信綱秋山虎繁など)らとの対立構図を生む格好となり、前出の春日の遺した『甲陽軍鑑』を始めとして、勝資に否定的な内容の逸話も複数残され、これらを典拠として勝資を「奸臣」と見做す向きも根強く残されている。

  • 長篠の戦いの際に長坂虎房(釣閑斎光堅)と共に主戦論を主張して武田軍の大敗を招いた
  • 御館の乱の際に和睦調停を手掛けた際、上杉景勝の陣営より賄賂として黄金を受け取った
  • 武田氏滅亡の際に勝頼を見捨てて逃亡した

主だったものとしてはこれら3点が挙げられるが、当然のことながらこれらの逸話についてはあくまでも勝資と対立的な立場から記されたものが多く、特に3点目については後述の史実とも明らかに相違するものであることから、ある程度差し引いて考える必要があることにも留意されたい。


跡部氏について

勝資の生まれた跡部氏は、元は信濃佐久郡を本貫地とする国人の一つで、信濃守護小笠原氏の流れを汲む一族でもある。

室町前期に発生した鎌倉府の内乱の一つである「上杉禅秀の乱」にて、時の武田氏当主・武田信満が討伐された後、守護不在となった甲斐には室町幕府の意向により武田信元(穴山満春、信満の弟)が京都より帰国、兄の跡を継ぐこととなるが、その際に信元の補佐として守護代に任じられたのが、跡部明海(駿河守)・景家(上野介)の父子であったと見られている。

跡部父子は帰国から程なくして信元が没した後、その後釜を狙った武田信長(信満の遺児)・伊豆千代丸父子を撃退、さらに信長の兄である信重を甲斐守護として擁立する際にも一役買ったと見られ、一連の動きを通して逸見氏や大井氏などと共に甲斐の有力国人に成長している。しかしその一方で、混乱著しい武田家中や領国の実権を守護代の立場から掌握し、当主すらも凌ぐほどの権勢を振るってもおり、最盛期には当主代行として、武田氏に代々伝わる家宝・「楯無の鎧」を有するほどであった。


とは言え驕れる者は久しからず、跡部氏が専横を振るう状況もやがて終わりを迎えることとなる。

その幕引きを担ったのは、信重の孫に当たる武田信昌(武田信虎の祖父)である。幼くして当主の座に就いた信昌も、当初は跡部父子のために当主としてはお飾りも同然の状態にあったが、寛正5年(1464年)に跡部明海が没すると、信濃の諏訪信満(諏訪頼重の高祖父)と組んで信昌は跡部氏の排斥に動き、翌寛正6年(1465年)の夕狩沢の戦いで跡部景家を打ち破った末に自害に追い込んでいる。この跡部氏の排斥は、甲斐武田氏の権威確立の第一歩ともなった。


跡部父子以降の系譜については不明な点も多いものの、勝資のそれも含めた複数の系統が武田家臣として命脈を繋いでおり、武田氏滅亡以降も跡部昌忠が徳川家臣・旗本として存続している他、江戸幕末期の水戸藩士・武田耕雲斎も跡部氏の末裔であるとされる。


生涯

武田家臣・跡部伊賀守(攀桂斎祖慶と号す。諱は不明。信秋とする系図もあるが確実な史料では確認できない)の子息として生を受ける。幼名は不明。後に又八郎の仮名(けみょう)、大炊助の官途名、尾張守の受領名を名乗る。生年については前述の通り未だ判明はしていないが、一部では享禄年間(1528年-1532年)の頃ではないかとも推察されている。伊賀守の頃には跡部氏は武田家の譜代家老として地位を得ており、勝資も武田家中を支える重臣として養育されたと見られる。

勝資の活動がいつから始まったかは定かでないが、天文18年(1549年)5月27日、大井氏(武田氏庶流、信玄の母の実家)の名代に大井信常を任ずる使者として、駒井高白斎(昌頼)と共に「跡又」なる人物が派遣されている。これは又八郎を名乗った勝資の可能性が高い。

永禄4年(1561年)、『甲陽軍鑑』によれば、勝資は第四次川中島の戦いに参戦していたようであるが、確実な史料での裏付けはできない。

永禄10年(1567年)、勝資は山県昌景や土屋昌続、原昌胤らと共に下之郷起請文の提出先となっている。これは信玄の有力な側近として重宝され、多くの国衆・寺社との取次を担っていたことを意味する。武田氏は信濃・上野への領国拡大に伴って、当該地域の各地の国衆や寺社といった在地勢力との関係を構築する必要が生じていた。彼らとの連絡を担った譜代家老の子弟からなる側近たちの存在感が増したのは、必然だったともいえる。勝資は山県・土屋・原らと並ぶ、そうした信玄側近の一人であった。


当主が信玄から勝頼に代わった後も引き続き重用され、長篠の戦いで先代からの宿老や、前出の土屋・原など同じ取次役が多数戦没してからは、家中において勝資の占める比重も自然と大きくなっていった。天正年間では主に一門衆の武田信豊と共に、越後上杉氏や常陸佐竹氏との同盟締結の取次を務めるなど、武田氏の外交面における立て直しに奔走することとなる。

天正10年(1582年)の甲州征伐の際にも、多数の家臣や国衆らが勝頼の元から去っていく中、勝資は土屋昌恒らと共になおも勝頼と行動を共にし、3月11日に天目山にて殉死を遂げた。ちなみに、『信長公記』が勝資の殉死を記す一方で、『甲陽軍鑑』は勝資が逃亡したとしている。敵方の人物が記した史料の方が勝資を正当に評価しているのは、何とも皮肉な話である。


前述の通り、跡部氏の系譜は別家の跡部昌忠の系統が繋ぐ格好となったが、一方で勝資の実子である昌業(和田信業)は、長篠の戦いの後に上野国人・和田氏の元に婿養子として迎えられており、甲州征伐の際には父とは異なり北条氏に属して生き延びたものの、その北条氏が小田原征伐で豊臣秀吉に屈服すると和田氏も没落。その後は勝資の孫に当たる業勝の子孫が、会津藩主の保科氏に仕えたとされる。


関連タグ

武田家 武田信玄 武田勝頼

土屋昌続 原昌胤 武田信豊

御館の乱 甲州征伐

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