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土屋昌恒

つちやまさつね

甲斐武田家臣。武田二十四将の一人土屋昌続の実弟。今川旧臣・武田家海賊衆の土屋(岡部)貞綱の養子。信玄と勝頼の2代に仕えた。武田滅亡の際のその奮戦ぶりは『片手千人斬り』と呼ばれる。
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プロフィール編集

生没年:1554?~1582

通称:惣蔵


父:金丸虎義(豊前守)

兄:金丸平三郎、土屋昌続(金丸平八郎)、秋山昌詮(金丸源蔵)、金丸助三郎

弟:曽根惣八郎、秋山源三郎

子:土屋忠直

妻:岡部元信の娘


概要編集

武田信虎に仕え板垣信方と共に嫡子・晴信(信玄)の傅役も務めた足軽大将の金丸豊前守の五男とされる。

次兄・平八郎は甲斐土屋氏に養子入りし土屋昌続を名乗り、三兄・源蔵は秋山虎繁の婿養子となった。このため金丸氏は四兄の助三郎が継いでいた。


金丸氏時代の1568年、駿河侵攻の際に昌恒は初陣を飾り、岡部元信の一族とされ今川家の海賊衆だった岡部貞綱の家臣を討ち取っている。

今川家滅亡後、武田家に仕えた岡部貞綱には子がいなかった。そこで貞綱は若年でありながら自分の家臣を討ち取った昌恒の武勇に目を付けて昌恒を養子として迎えた。また先述の岡部元信の娘を妻に迎えている。


1570年代頃に養父貞綱は信玄から土屋性を名乗ることを許され、昌恒も土屋姓に改姓。昌恒と昌続は実の兄弟でありながら、義兄弟のような関係にもなる。


1575年に兄昌続と養父貞綱が長篠の戦いで討死したため、昌恒は両土屋家の家督を継ぎ実兄と養父の知行と家臣を引き継いだ。昌続以外にも山県・内藤・馬場・原・真田兄弟らの重臣が多く討死したこともあり、武田家の中枢を支える一員となっていく。


昌恒は武田家を支えていくが、1579年の御館の乱の顛末から北条家と対立し1581年の高天神城の戦いでは舅・元信が討たれ元信の同族である岡部正綱も徳川家に降った。また木曾義昌の離反もあり武田家はさらに追い込まれ、1582年に織田信長徳川家康北条氏政らによる「甲州征伐」で滅亡する。


昌恒は穴山梅雪小山田信茂など多くの家臣が武田家を見限る中、跡部勝資大熊朝秀らと共に最後まで武田勝頼信勝父子に従い討死した。この時、兄の金丸助三郎や下の弟の秋山源三郎も討死にしたが上の弟の曽根惣八郎は生き延びのち徳川家に仕えたという。


最後の戦いで昌恒はまず断崖の小道から弓を取って織田軍を散々に撃ち落とした。そして矢が尽きると左手をツタに絡みつけて崖に落ちないようにし、右手に刀を持ち織田軍の雑兵を斬り倒したと伝わっている。その活躍を聞いた信長は敵でありながら賞賛し、昌恒の最期は『片手千人斬り』として今もなお語り継がれている。


遺児の惣蔵は徳川家康に召し出され、世子・徳川秀忠の小姓に付けられのち秀忠の偏諱を受け土屋忠直と名乗り相模で3000石を与えられた。関ヶ原の戦いの後、遠江横須賀に加増転封された大須賀忠政(榊原康政の長男)の後釜として上総久留里を領しのち久留里藩を興した。忠直は1612年に早世したが、後を継いだ長男・利直は長命で江戸幕府4代将軍・徳川家綱の代まで生きた。ちなみに、家綱の甥で6代将軍・徳川家宣に仕え「正徳の治」を推し進めた新井白石は若い時、利直に仕え可愛がられていたという。


真田魂編集

「この土屋昌恒がいるかぎりこの細道は何人たりとも通させん‼︎」


第22話のみの登場。


先述の通り、勝頼の本陣に続く小道にて左手に蔓を絡み付け、右手に刀を持ち、織田軍を斬り倒し続ける。


数には勝てず、最終的に討たれるが、自身は「これだけ粘れば…長篠で散った兄上(土屋昌続)に顔向けできるかな…」と笑いながら斃れた。


関連タグ編集

武田信玄 武田勝頼 土屋昌続 隻腕

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