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岡部正綱

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おかべまさつな

今川、武田、徳川氏に仕えた戦国武将。駿河国の国衆で岡部元信の同族。生没年1542~1583年。

概要

今川家臣・岡部久綱の嫡男として天文11年(1542年)に生まれる。同族に岡部元信や土屋(岡部)貞綱がいる。元信とは(元信の生年を1510年前後とした場合)年齢が30歳以上も離れている。

幼少期は、駿府で人質として預けられていた同い年の松平竹千代(のちの徳川家康)と親しかったと言われるが、当時の一次資料には見られないので、真偽は不明。

正綱の初見は、弘治3年(1557年)に僅か齢16にして初陣を果たし、兜首を2つも上げるという目覚ましい武功を立てる。

桶狭間の戦いで義元が討死し、家督を継いだ今川氏真を支え続ける。

しかし、永禄11年(1568年)に遠江は今川家から独立して織田信長と同盟を結んだ徳川家康が侵攻し、駿河は甲駿相三国同盟を破棄した武田信玄が侵攻したことで今川氏は滅亡する。

駿河にいた多くの今川家臣が武田方に内通・降伏する中で、正綱は徹底抗戦を展開。翌年、武田軍が北条氏と敵対し撤退した際には、駿河今川館を奪還。武田軍が戻って来ると、徹底抗戦を再び展開。

この時、信玄からは「一人の兵を得るのは容易いが、一人の将を得るのは難しい」とまで評された。信玄は様々な手を使い正綱を懐柔し、正綱はようやく武田の軍門に下ることになる。

なお、詳細は不明ながら駿河の旧今川家臣と比べて、正綱と元信はかなり厚遇されていた。

武田家家臣となった元亀元年(1570年)の駿河花沢城攻めに参戦し、駿河平定に貢献した。西上作戦においても同3年(1573年)12月の三方ヶ原の戦いや翌元亀4年2月の岩村城の戦いにも馬場信春の先陣に属して参戦し、活躍した。

信玄亡きあとも、あとを継いだ武田勝頼を良く支え、天正2年(1574年)の高天神城攻めや同3年の長篠の戦いにも参加している。

その傍ら、武田水軍を率いていた将の一人でもあった。

武田家から厚遇されたいた正綱だが、同9年(1581年)の高天神城が徳川軍の攻撃を受けた際に、勝頼が援軍を送らず、城代であった元信以下ほぼ全ての城兵が討死したことで、武田氏に対する不信感を覚える。

同10年に甲州征伐が始まると、既に徳川方に内通していた穴山信君の誘いを受けて、徳川方に内通。武田滅亡後は徳川氏家臣となった。

その僅か2月後に本能寺の変で信長が自害し、京にいた信君が巻き添えを食らって土民に殺されると、主君であった家康は武田旧領を取り込みべく行動を開始。

正綱は家康の為に旧武田家臣の調略を進めつつも、甲斐に派遣されていた織田家家臣の河尻秀隆を取り込もうとしたが、秀隆が不審な行動を取り、家康が派遣した家臣の本多信俊を殺害した為、信俊の一族と既に徳川家に従った武田残党共に一揆を先導させて秀隆を襲撃させ、死に追いやった。

その後も正綱は、平岩親吉本多正信らと共に甲斐国内の統治に貢献し、譜代同然の扱いを受けるが、徳川家家臣になって1年程で急死し、子の長盛が家督を継いだ。

正綱は旧武田家臣の調略の為に毎晩酒宴を開いており、過度な飲酒が祟って急性アルコール中毒が原因だったとされている。

長盛は武勇優れその装いから「黒鬼」と呼ばれ「徳川二十八神将」の一人に数えられている。

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