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河尻秀隆

かわじりひでたか

河尻秀隆とは、中部地方の戦国武将。織田信長の腹心としてその勢力拡大に貢献、後に織田信忠が家督を継ぐとその補佐役としても活躍、甲州征伐を経て甲斐一国を任された。(1527年-1582年)
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生没:大永7年(1527年) - 天正10年6月18日(1582年7月7日)

別名:与四郎、与兵衛尉


尾張の織田氏に仕えていた戦国武将。出自については謎が多く残されているが、史料上では織田大和守家(守護代家)の老臣として河尻与一郎重俊なる人物の名が残されており、また信長の命によってその跡を継いだという記述もある事から、少なくとも大和守家家臣であった河尻氏と何らかの繋がりがある人物ではないか、という説が有力視されている。


織田信秀信長信忠と三代に亘って織田氏に仕え、中でも信長からの信任が非常に厚かった事が、黒母衣衆筆頭という立場にあった事や、現存する書状の数々からも明らかにされている。また信長の後継者である信忠をよく補佐し、甲州征伐でも作戦指揮のみならず、血気に逸る若い武将らの統制に努めているなど、信忠の家臣団の中でも事実上中核的な存在にあった事が窺える。


近畿方面での織田氏による主要な合戦に不参加だった時期、それに甲斐国主として短命に終わった事などもあってか、他の織田家臣と比べると知名度の面ではやや譲る部分もあるものの、それでも東美濃や甲斐における武田氏への抑えとして欠かすべからざる人物であった事は、後に甲斐一国を任されるまでに至った事から見ても確かであると言えよう。


生涯

前半生

若い頃より、清洲三奉行の一人であった織田信秀(織田弾正忠家当主)に仕え、その偏諱を受けて「秀隆」と名乗る。天文11年(1542年)に織田氏と今川氏との間で発生した小豆坂の戦いでは、弱冠16歳にして敵将を討ち取る武功も挙げている。


信秀の死後、嫡男の信長に引き続き仕え、主君直属の精鋭集団ともいうべき「黒母衣衆」の筆頭を永禄10年(1567年)頃まで務める。この時期には信長の同母弟・信勝(信行)の謀殺を実行した他、桶狭間の戦いや美濃侵攻などの織田氏による対外抗争にも頻繁に参加。美濃攻めでは猿啄城、堂洞城の陥落に多大な功を挙げ、戦後の論功行賞において猿啄城を与えられるとこれを勝山城と改めた。

永禄年間の末期に、足利義昭を奉じて信長が上洛の途について以降も、秀隆は信長側近として精力的な活動を続けており、姉川の戦いや志賀の陣などといった対浅井・朝倉戦、それに比叡山焼き討ちなど、各地を転戦する日々に明け暮れた。


美濃戦線での活躍

元亀3年(1572年)に織田氏と甲斐武田氏の関係が険悪化すると、両者の緩衝地帯であった東濃の遠山氏を抑えるべく、その本拠である岩村城の占拠にも当たった。しかし秀隆らの帰還後、織田の強引さに反感を抱いた遠山の家臣団が、秋山虎繁率いる軍勢を城内に引き入れる形で武田に寝返るという事態が発生している。

天正年間に入り信長の嫡男・信忠が元服、東美濃と尾張を任されると、秀隆もその補佐役として信忠に附けられた。一方で武田信玄亡き後も、明知城が陥落するなど依然として武田氏が美濃を脅かす状況にあり、秀隆は神篦城(鶴ヶ城)に入り対武田氏の最前線で睨みを利かす一方、信濃の国人衆への調略も行い一定の成果を挙げている。


そして天正3年(1575年)の長篠の戦いを経て、先に武田方へと寝返った岩村城攻めが行われると、総大将を任された秀隆はここでも武田軍による夜襲を退け、1100あまりの敵兵を討ち取るなど群を抜いた功を挙げている。

この時の戦功により、秀隆には恩賞として岩村城5万石を与えられ、信忠付きの家臣団の中でも一目を置かれる存在となったと見られる。またこれ以降の4年間は対武田の抑えとしての任を務めつつ、治水事業(天正疎水)などを通して岩村の城下町の整備にも尽力した。


甲州国主

天正10年(1582年)、織田氏が甲州征伐に乗り出すと、秀隆も信忠とともに出陣し高遠城攻略などで活躍、さらに滝川一益と共に武田勝頼らを追撃し自害に追い込んでいる。この時の軍功により、新たに甲斐22万石(穴山信君(梅雪)の本領を除く)と信濃諏訪郡を任され、ここに甲斐の国主となるに至った。

これ以降、秀隆は甲府に程近い岩窪を本拠として甲斐の統治に当たり、逃散していた農民らの帰還の呼びかけなどを始め領内の安定化を図る傍ら、武田の旧臣らの取り込みにも尽力しているが、後者に関しては甲州征伐における織田方の仕置が苛烈であった事も影響し、不首尾に終わっている。


そんな秀隆の命運を一変させたのが、同年6月に発生した本能寺の変であった。明智光秀の襲撃に遭い信長・信忠父子が揃って落命した事は、秀隆や滝川一益ら織田領の東方を任されていた諸将らにも深刻な動揺をもたらすものに他ならず、秀隆の領する甲斐国内でも武田の旧臣による国人一揆が相次いで発生するなど、変による影響が早くも表れ始めていた。

またこの時、徳川家康も無主状態となった穴山領を始め、甲斐・信濃への経略に乗り出しており、甲斐に留まっていた秀隆の元へも、10日頃に家康より本多信俊が協力を求める使者として派遣されている。これに対し秀隆は水面下での徳川の蠢動に不審を抱いていたようで、14日には信俊を斬殺して断交の意思を表明した。

しかしこの事が、秀隆にとっての命取りとなった。主君の死を知った信俊の家臣らは、武田の旧臣らを結集させると翌15日に蜂起、岩窪へ襲撃を仕掛けたのである。秀隆は脱出を図るも叶わず、6月18日に一揆勢の三井弥一郎(武田旧臣、後井伊直政家臣)によって討ち取られてしまった。享年56。


秀隆の死、そして滝川一益らの敗退によって甲斐・信濃・上野は空白地帯となり、この後徳川・北条・上杉の三者による争奪戦の末、家康が甲斐の支配権を獲得するに至っている。一方でこれにより父の遺領相続の機会を失った嫡男・秀長は羽柴秀吉に仕え、後に大名に復帰するも関ヶ原の戦いにて西軍に属し討死。その弟の鎮行の家系が旗本として取り立てられ、江戸期を生き残った。


関連タグ

中部勢 織田信長 織田信忠

滝川一益 森長可

佐々成政 - 秀隆の後を受けて黒母衣衆の筆頭を務めた


森田順平 -1992年放送NHK大河ドラマ信長 KING OF ZIPANGU』における秀隆役

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