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織田信雄

おだのぶかつ

織田信雄(1558〜1630)とは、戦国時代及び江戸時代初期の武将・大名であり、織田信長の息子。
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概要編集

織田家当主・織田信長の次男。

母は側室・生駒吉乃。幼名は茶筅丸。同じ母の兄妹に兄・信忠、妹・徳姫がいる。


本能寺の変にて討ち死にした父と兄に代わり、豊臣秀吉徳川家康に食らいつきながら織田家を大名として残した人物の1人である。



経歴編集

1558年(永禄元年)に織田信長の次男として生まれる。同年齢の弟・信孝の方が実は早く生まれたが、母親の身分をはばかって信雄を次男としたとの異説がある。

父・信長の北伊勢攻略に伴い、名門・北畠家の当主・北畠具教を攻め、これを降伏させた。この時信長は茶筅丸こと信雄を具教の嫡男・具房の養子とすることを条件につける。これにより北畠具豊と名乗り、家老に北畠具教の弟であった木造具政がつく。木造は兄・具教から寝返って信長に臣従しており、これ以降信雄とは長い付き合いとなった。 その他津田一安滝川雄利土方雄良らを旗下に加えている。


1574年(天正2年)の伊勢長島討伐で初陣を勤める。以降織田軍の主要な戦いに参加。

1575年(天正3年)の長篠の戦い越前一向一揆征伐、1577年(天正5年)の雑賀征伐に従軍。多くの合戦で兄である織田信忠に従い織田軍の中軍として活躍、1578年(天正6年)には兄である信忠とともに中国征伐に随伴、神吉城を攻める信忠と別行動を取り志方城を包囲。

丹羽長秀らと協力しこれを降伏させる。翌年(天正7年)、父に従い謀反を起こした荒木村重討伐にも参加する。


1576年(天正4年)には父・信長の命により木造具政を除く具教ら北畠一門のほぼ全員を討ち取り、具房は幽閉されたのち数年後に死去。これにより北畠家は織田信雄のもとに乗っ取られることになる。

1579年(天正7年)には伊賀攻め(天正伊賀の乱・第一次)に失敗して信長から叱責を受ける。信長はこのとき親子の縁を切ることを考えたが、辛うじて思いとどまったという。

1581年(天正9年)には父の援護を受けて伊賀を平定(天正伊賀の乱・第二次)。

1582年(天正10年)には弟・織田信孝、重臣・丹羽長秀の四国征伐に際して援軍を供出している。


1582年(天正10年)6月2日、明智光秀の謀叛により京で父・信長と兄・信忠が討たれる。

明智光秀が変の後近江方面に進出してきたこと、四国征伐軍に援軍を派遣していたこともあって信雄は変の際に積極的な行動が出来なかった。やがて中国から戻ってきた羽柴秀吉と、摂津にいた織田信孝、丹羽長秀らが明智光秀を討伐し、変事は収まった。


しかしこの変事により父の仇を討った弟・信孝とは離されることになる。続く清洲会議では四宿老により織田家当主を信忠の遺児である織田三法師とした。


同年11月になかなか三法師を手元から離さない信孝に対抗するため、羽柴秀吉丹羽長秀池田恒興徳川家康によって織田家の家督を相続する。やがて三法師を信孝から取り返すと翌年の1583年(天正11年)には織田信雄、羽柴秀吉、丹羽長秀らが織田信孝、柴田勝家らと対立して賤ヶ岳の戦いが発生、敗北した柴田勝家は北ノ庄で自刃。信雄は信孝に切腹を命じることで決着がついた。


しかし所詮は仮の当主であったため、三法師が返ってくると再び三法師が織田家当主の座に就く。加えて信雄は後見人としての地位を失い、三法師のいる近江から国元へ返されるに至った。また賤ヶ岳の合戦を経て、朝廷が本格的に秀吉と交渉を測るという不運も重なった。

結局、朝廷はこれ以降羽柴秀吉を支持する体制を取りつづけ、織田家―羽柴家の主従関係が曖昧になってくるようになる。


信雄も一矢報いようと徳川家康長宗我部元親北条氏政らと協力を取り付けて秀吉に対抗する動きを見せ、1584年(天正12年)の小牧長久手の戦いでは池田恒興森長可らを家康と協力して討ち取る活躍を見せるが、元々三法師、羽柴秀吉らに正統性が存在するため一門の織田信包を筆頭に寝返りが相次いだ。


伊勢方面では滝川一益九鬼嘉隆を撃退し、蒲生氏郷に対しても防戦するなど善戦を見せるが、徐々に領国も織田、羽柴軍に侵攻されるにおよび、信雄は秀吉との和議を模索、家康や元親といった反体制側も秀吉に和議、あるいは降伏するに至った。

小牧の翌天正13年、秀吉は朝廷内における官位騒動も手伝って従一位、関白と豊臣氏を朝廷から下賜されるに至り、この時点をもって朝廷の権威や官位の元、織田・羽柴の主従関係が逆転することになる。


小牧長久手の戦いの後、しばらくは信雄も清州城を居城とする大身の身であったが、やがて三法師が元服して織田秀信となると織田家の主導権は信雄から秀信に移行した。しかし官位においては家康より先に正二位内大臣に就任し、長男の織田秀雄も従三位参議に就任するなどかなりの厚遇を受けている。

小田原の役の後、1590年(天正18年)、秀吉の命令により徳川家康旧領への転封を拒否すると領地を召し上げられ、下野烏山城に2万石の領地を与えられる(一説には那須とも)。以降出家して織田常真と名乗り、出羽、伊勢、伊予を転々とした後、家康のとりなしによって大和国に1万8千石、息子の織田秀雄に越前大野5万石と羽柴姓を与えられることで復帰する。信雄自身は大坂天満に在所し、その後信雄は豊臣政権で大領を得ることは決してなかった。



やがて秀吉が死去したのちの関ヶ原の戦い(1600年(慶長5年))においては、信雄自身は中立を保っていたものの、長男の織田秀雄が西軍に属していたため、父子ならんで改易処分を受け、また秀吉と距離を近づけて準一門となっていた岐阜城主・織田秀信が改易され、数年後に26歳の若さで死去すると織田家はさらに縮小する。しかし、叔父の信包や織田有楽斎がしっかり家を存続させていた。

大坂冬の陣(1614(慶長19年))においては、豊臣家は信雄を総大将にする気でいたが、戦の始まる直前に突如大坂城から退去、京都にいた家康に恭順した。信雄から助言を受けた片桐且元も退去している。

戦後大和で3万石、上野で2万石を与えられた。のち信雄の子息が家を分岐させ、織田信包系や織田有楽斎系にも養子を送り、明治時代までほぼ直系で存続するに至った。


人物編集

現代まで子孫が残っているが、ルイス・フロイスから信長の息子としては唯一酷評されるなど、人物評としては芳しくない。また、やらかしも残っている。

ただし、当初高評価を得ていた織田信孝も、敗死すると掌を返されたように酷評されており、一概にその人物評が全て正しいとはいえない側面もある。


まず、1579(天正7)年、織田信雄は、父・信長に無断で伊賀(「天正伊賀の乱」の勃発)を攻め込むのだが、伊賀の地はかつて足利家、六角家の兵力母体とも言えるほどの

軍事的発展地帯であり、往時は六角子孫であった仁木義親などが治めていた。

そのため、伊賀国人の猛者どもに苦戦し、返り討ちに遭ってしまう。


これを知った信長は、当然ながらも激怒しており、信雄に対して折檻状を叩きつけた。

これが信長公記に記録される形で、現代まで残っており、「北畠中将殿御折檻状の事」によると――


若気ゆゑ、実と思ひ、此のごとく侯や。さて貼、無念至極に侯。 此の地へ出勢は、第一、天下の為め。 父への奉公、兄城介大切、且つは其の方の為め、彼れ是れ、現在未来の働きたるべし。 剰へ、三郎左衛門を始め、討死の儀、言語道断、曲事の次第に侯。 実に其の覚悟においては、親子の旧離許容すべからず侯。

……とある。簡単に要約すると――

  • 若気の至りで勝手によそへ戦争を始めたことは無念である。
  • 父親である自分(信長)、兄貴である織田信忠に尽くすことがお前の役目、それを死守せよ。
  • 三郎左衛門(信雄の家臣)を討ち死にさせたことは曲事である。
  • 問答次第では親子の縁を許容しないことも考えている。

……ということである。

どうやら「戦争に負けて失敗したこと」よりも、「次期当主たる織田信忠の許可無く軍を動かした」ことを問題視している事が窺える。

この懸念は、当時まだ根強く反織田派が残る情勢を考えれば当然の判断であり、何より「跡継ぎの信忠の存在を無視して勝手に戦を始めた」という事は「信忠を信長の跡目とは認めない」という意思表示に取られ兼ねない造反行為であり、要らぬお家騒動を巻き起こす原因ともなり得る。

信長が鬼の形相になるのも無理からぬ話だろう。


2年後には織田信長の正式な命令のもと、有能な武将達を従える形で再度の侵攻を行い、伊賀平定に持ち込む事に成功している(第二次・天正伊賀の乱)。


本能寺の変の後、織田信雄が安土城を焼却してしまうという噂が流れた。

柴田勝家明智光秀に加担した」という噂と同じ、根も葉もない話であったが、火のないところに煙は立たない、とも解釈できる。

(柴田勝家も、かつての裏切りから疑心暗鬼の噂がたった。また、津田信澄は明智光秀の娘婿だったこともあり、織田一門でありながら、本能寺の変の加担者として殺害されている)。


本能寺の変の後、不仲であった弟の織田信孝に戦争を仕掛け、自害に追い込んでしまっている。

この戦いで羽柴秀吉と協力したが、結果的に羽柴秀吉の専横を許すことになった。

その後は、秀吉と内通した重臣を処刑したことにより彼と対立し、徳川家康と協力して小牧・長久手の戦いを起こす。

羽柴・織田・徳川が一同に会した天下分け目の戦いは、序盤の長久手合戦こそ、勝利を収めるが、織田信雄の領地であった伊勢、徳川家康の領地であった信濃などでは秀吉の魔の手が伸びており、伊勢では九鬼嘉隆ら、信濃では木曽義昌らが秀吉方に寝返るという戦略的には著しく不利であった(のちに、徳川方から寝返る人物に、かの有名な真田昌幸がいる)。

局地的な戦闘においても、羽柴方に決定打を与えることはできず、じりじりと兵力差で押されていた織田徳川方の限界を悟った織田信雄は「潮時」として秀吉と和議を結ぶ。

これにより家康も撤退し、のちに信雄の斡旋のもと秀吉に下ることになる。


ちなみに和議条件としては「伊賀、南伊勢、および北伊勢の割譲」とされているが、実はこれらの領地は戦争中に既に羽柴軍によって侵略された範囲とほぼ同じである。


しかし、「神君家康公」を標榜する徳川政権時代には、「家康が土をつけた汚点」とも言えるこの戦いが粉飾され、「徳川勢は羽柴勢に勝利したが、無能な信雄が秀吉にビビって勝手に和議を受諾した」という「徳川史観」が長く浸透することになった。

(その後の秀吉への臣従も、上手く神君家康を損ねないようボカされている)


勝手に伊賀に侵攻して、「天正伊賀の乱」を引き起こしたという史実から、フィクション作品等で信雄は、「伊賀忍者の怨敵」として扱われる事も少なくない。


後世の評価編集

「信長の息子はボンクラ揃い」と司馬遼太郎に言わしめられるほどであったが、(親父が破格の傑物であったがゆえに致し方ない部分もあるが。あの人と似たようなケースか? 一応の地位を確保して天寿を全うしたり、近くにの影が見えたりと共通点は多い)。

しかしながら、近年では兄・織田信忠は父・信長のスパルタ教育を受けていたため織田家の家督を継ぐに足る器量を持っていたという説や、父に似た器量を恐れて秀吉は織田信孝を切腹させたとの説が提起されており、兄弟たちの再評価の兆しに若干ながら乗っているところである。


なまじ織田家を牽引してきた 武将としての才能、器量があっただけに、 豊臣秀吉徳川家康といった天下人・傑物と対決、比較されることになり、 その分だけ2人と比べた「粗さ」が目立つ結果になった所以である。


天下人豊臣秀吉と戦って引き分けに持ち込んだ数少ない存在であり、不運の連続に見舞われたものの最終的にはお家を存続させている。世が世なら群雄の1人であったかもしれない。

むしろ、結果的に敗者であるにもかかわらず生き残り、ある程度の権力を持ち続けたという点では抜群の才能である。

不運の連続に見舞われたものの最終的には大名家を 2家(織田信良、織田高長、ともに信雄の息子)も存続させている。

また信長の弟・織田有楽斎による有楽流も信雄の子孫が引き継いでいる。


またフィギュアスケートの織田信成選手が、信雄の子孫ではないかと言われているが 、現在をもってもその真偽は不明である(家系上は信長の七男・織田信高の子孫であるが、途中で信雄の血を引く養子が入っているため、血縁上は信雄の子孫であるとされる)。


天下泰平の世となると、自らは京に隠居したが、息子の織田信良、織田高長などを通じて藩政に口出しすることもあったと言う。彼は領地となった上野小幡において、養蚕業を推奨しているが、これが明治時代の富岡製糸工場の大元となっている。


創作での関連編集

戦国無双編集

武器:薙刀(2empires) 槍(1〜3) 刀剣(4Emp) 声:山田真一(2) 岡本寛志(3) 宮坂俊蔵(4)


「人間五十年…で、あるかア!」(3Empの特殊セリフ)

「予と刃を交える、か。無明よ」(4Empの特殊セリフ)


小牧長久手の戦いで織田・徳川連合軍の総大将の立場でありながら、『2』では秀吉の脅しに屈して撤退したり、『3』では家康の言葉に耳を傾けずに出撃し、敵の奇襲を受けてしまったりと無能な武将という印象が強くシリーズ随一のやられ役。


chronicle以降は父・信長の「で、あるか!」「…、ぞ」を無理して発言する。『4』で頭巾を被っており、紫に銀の鉢金の見た目で特殊モブ化。天下統一の章に登場。父の信長以上に間延びした口調で3以前と同じくやられ役。


ちなみに3Empでは兄の信忠や甥の秀信と同じ特殊セリフがある人物だが、ただ一人弟の信孝のみ特殊セリフが無い。(2のみ信孝は勇将モブだが、声は豪将という特殊な扱いをされたから?)


4Empでは兄・信忠と同じく固有武将の1人として登場し、公家冠を被ったデザインで登場した。それに伴い台詞と武器が変更された。


忍びの国編集

和田竜の小説『忍びの国』では天正伊賀の乱に挑む彼が描かれた。

絶大な威勢を誇る父と己の才能の格差を大きなコンプレックスとしており、そのせいでヒステリックになって家臣団との折り合いも悪い。

前半こそ暗愚扱いされていたものの、日置大膳らの前で己の苦悩を包み隠さず吐露したことで、逆に彼らからの信頼と支持を得て伊賀攻めに打って出る。

合戦終盤には負傷で弓の引けなくなった大膳の代わりに彼の五人張りの大弓を引いて見せるという、とんでもない身体能力を見せつけた。


信長の忍び軍師黒田官兵衛伝編集

常に鼻を垂らしたニキビ面。

父・信長が「うつけ」と呼ばれていたことを拡大解釈してかうつけ日本代表呼ばわりされており、周囲はだれ一人彼を正当に評価していないというか、評価のしようがない。同い年の異母弟・信孝(出生報告が遅れたため弟になったらしい)曰く「動くバカって一番タチ悪ィ!」。

天正伊賀の乱の張本人であるため、千鳥助蔵に対しては最大の波乱を巻き起こすらしい(ただ、地の文では「そこに至るまでこのマンガが打ち切られなければの話だが」と書いてある)。



センゴク編集


史実の仙石秀久をベースに脚色を織り交ぜた歴史漫画。

顔は織田信長に若干似ている(大友義統の方が似ている気もするが・・・)

当初こそ従来説ベースの凡庸ぶりを発揮したが、途中から

「実力あらば良いんじゃな」「織田の血は窮地でこそ輝く」

いうセリフを皮切りにいきなり覚醒し、小牧で羽柴秀吉徳川家康という

のちの天下人2人を争わせるトリックスターぶりを発揮した。


殆どの作品では凡庸~暗愚に描かれる彼であるが、この作品では

「取次(外交)として優秀」という形で秀吉がその才を畏れて改易したことになっており、

秀吉との単独会談も謎の大物ぶりを発揮するなど、かなり株をあげていると言えよう。

史実の彼が再評価されるきっかけとなるかもしれない。




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戦国武将 武将

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