九鬼嘉隆
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くきよしたか
水軍を率いた戦国武将。
天文11年(1542年)、志摩(三重県)の地頭の三男として生まれたが、地元の別の地頭達やそれに加勢した武田信虎(武田信玄の父)に攻められて長兄が戦死。その後嘉隆は、滝川一益の仲介を経て織田信長に仕え、北畠具教攻めで水軍力を発揮し、信長の計らいで九鬼家を継いだ。
嘉隆は海上から織田勢を援護してきたが、天正4年(1576年)に信長は本願寺顕如と毛利輝元との戦で、九鬼水軍は毛利水軍に惨敗。激怒した信長の命を受け、天正6年(1578年)に日本史上初の鋼鉄軍艦「鉄甲船」を完成し、毛利水軍を撃破。しかし、堺港で駐留中に本能寺の変が起こった。
信長死後は豊臣秀吉に仕え、九州攻めや小田原攻めに従軍し、朝鮮出兵(文禄の役)でも対馬海峡で朝鮮水軍を撃退した。
このとき乗った日本丸は日本初の軍艦とされる。
慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いが起こった時は家督を息子・守隆に譲っていたが、西軍に与し敗北。東軍に与していた守隆は徳川家康から父の助命を許されたが、助命の知らせを知る前に嘉隆は家臣の勧めで自害した。
『信長の忍び』
日に焼けた黒い肌と鮫のような乱杭歯を持ついかにも海賊風の風貌をした水軍大将。
ライバルである村上武吉が「誰よりも自由」であることをモットーとしているのに対し、九鬼水軍の郎党たちを「侍」にしてやりたいという気概で信長の覇道に手を貸す。三国志や源平合戦に造詣が深い。
第2次木津川の海戦においては毛利・村上水軍の安宅船を破り、反信長包囲網の最後の要であった石山本願寺にトドメを刺すこととなった。
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