もしかして
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概要
南北朝時代から戦国時代にかけて瀬戸内海で活動した日本の水軍、海賊。芸予諸島(愛媛県)を中心に活動をしており、傭兵として合戦へ参戦、海に独自の関所を設けて通行料の徴収などを行っていた。戦のない平時の時には商業や漁、海運などで生計を立てていた。
3つに分かれていた村上水軍
村上水軍は3つに分かれており、それぞれ芸予諸島の3つの島を本拠地としていた。この3つは、能島(のしま)を本拠地にしていた「能島村上氏」、因島(いんのしま)を本拠地にしていた「因島村上氏」、来島(くるしま)を本拠地にしていた「来島村上氏」の3つに分かれていた。このうち因島村上氏は毛利家に、来島村上氏は河野氏に取り込まれていたため村上水軍の中心となったのは能島村上氏である。
歴史
黎明期
一番古い記録では南北朝時代に現れている。それは能島村上氏が海上警護を行っていたという内容であった。南北朝時代の村上水軍は瀬戸内海の制海権を持っており、海に関所を設置して通行料の徴収、水先案内、海上警護などを行っていたそうである。
戦国時代、村上水軍の最盛期
戦国時代には能島村上氏を日本の海賊王、村上武吉が率い来島、因島の村上氏が有力な大名に取り込まれる中、独立勢力として力を振るい、村上水軍は最盛期を迎えていた。
村上水軍は傭兵業を行い、1555年に毛利元就軍5000人が陶晴賢軍2万人を破った厳島合戦では毛利軍に加勢し、「村上水軍がいなければ元就は負けていた」というほどの活躍を見せる。それだけでなく1576年には第一次木津川口の戦いでも毛利側にとして、織田家の水軍に圧勝し、全国に名を轟かせる。
イエズス会の宣教師であるルイス・フロイスは村上水軍を著書の中で「日本の海賊の最大なる者」と評された。
村上水軍の終焉
第一次木津川口の戦いで大敗の報せを聞いた信長は激怒し、家臣の九鬼嘉隆に史上初の鋼鉄戦艦「鉄甲船」を作らせる。1578年の第二次木津川口の戦いにて村上水軍は鉄甲船を率いる織田家に敗北し、村上水軍の栄華が揺らいでいく。その後も瀬戸内海で勢力を維持し続けるが、1585年の豊臣秀吉による四国征伐に参加しなかったことから能島を攻撃され豊臣家に降伏。村上水軍は豊臣家の水軍に編入される。
そして1588年、秀吉により「海賊停止令」が発布されたことにより主要な収入源だった瀬戸内海の通行料の徴収ができなくなり、村上水軍は完全に壊滅することとなった。
その後
江戸時代には因島村上氏、能島村上氏は毛利家の家臣となり、長州藩の水軍を組織した。来島村上氏は関ヶ原の戦いの結果、大分県の内陸部に転封させられ海から遠ざかることを余儀なくされた。
明治時代には大日本帝国海軍の少将、「知略湧くが如し」と称された秋山真之によって村上水軍の海上戦術が研究される。これに感銘を受けた真之は村上水軍の戦術を基に日本海海戦の戦術を考案し、勝利。日本海海戦は日露戦争の勝敗を決定づける戦いとなったため、実質村上水軍の戦術が歴史を大きく動かしたのだった。
2016年には村上水軍の文化財が「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として日本遺産に登録された。
活躍
瀬戸内海での活動
村上水軍の本拠地であった芸予諸島は小さな島々がこれでもかというほど密集していたため海峡が狭く、それに伴い潮の流れも驚くほど激しいため古来より海の難所として船乗りたちを困らせてきた。そこで村上水軍は海峡を関所に見立て、通る船から帆別銭(ほべちせん)と呼ばれる通行料をとっていた。ただ払わせるだけでなく、村上水軍は帆別銭を払った船には「過所船旗」と呼ばれる紋章が入った絹の旗と署名を渡し、その船の水先案内、海上警護なども同時に行っていた。これにより、瀬戸内海の治安維持にも貢献していたといわれている。
帆別銭を払わなかった船は襲撃し、積み荷をかっさらうなどといった海賊らしい行動も行っていた。この他にも大名家の戦争の仲介なども行っていたようである。領域内では独自の法律を作っていた。
瀬戸内海の航路のうち、本州側は因島村上氏が、四国側は来島村上氏が、最短ルートとなる中央の海域を能島村上氏の縄張りとしていた。
傭兵業
傭兵業も行っており、海上の戦で大活躍した。村上水軍は主として「小早船」という機動力の高い小型の船を使って迅速に移動し、焙烙などの火薬を使用した武器を使い攻撃するのが主な戦闘手段であった。他にも兵士や兵糧の輸送なども行っており、瀬戸内の大名は海の戦の際に村上水軍を味方につけることを最優先事項としていた。
文化
「海賊」という言葉のイメージから「野蛮な集団」というイメージが持たれるが、実際はそんなことはなく文化的な集団であり、茶道や連歌などを行っていたという。村上水軍のいた島は繁栄しており、集落跡からは大量の陶磁器や備前焼などが出土している。村上水軍の構成員は主に真言宗を信仰しており、村上水軍の領域だった島には真言宗の寺や文化財が多く残っている。
真言宗だけを信じていたわけではなく、芸予諸島の大三島にある武運や海上通行を祀っている大山祇神社には戦の前に自らの思いを詠み連ねた「法楽連歌(ほうらくれんが)」を奉納して、武運を祈っていたといわれている。
戦での勝利のあとには戦勝を祝い、戦没者を弔うために武者姿で踊る「法楽踊り」や瀬戸内海の魚介類を使用した「法楽焼き」や「水軍鍋」など、独自の文化を形成していた。
ちなみに…
この村上水軍を率いていた男、村上武吉の娘を描いた作品こそが和田竜の「村上海賊の娘」である。
また伊予村上氏は戦国時代に武田信玄を二度破った猛将・村上義清を輩出した信濃村上氏の分流とされる(異説あり)。