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村上武吉

むらかみたけよし

戦国時代の武将。三島水軍の一角・能島村上氏の当主。毛利元就・毛利輝元・小早川隆景・小早川秀秋に仕えた。
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概要編集

生没:1533?〜1604

戦国武将。能島村上氏の当主。

「日本最大の海賊」とあだ名された。

名前は武慶とも。


生涯編集

村上義忠の子。幼い時に祖父・村上隆勝が暗殺されるなど波乱の少年期を送るが反対勢力を退け能島村上氏の当主となる。


厳島の戦い毛利元就に加担してから毛利水軍の一翼を担った…と見られがちだが実態は違っていた。当時の村上水軍は能島・来島・因島に分かれていたが来島村上家は河野氏に、因島村上家は毛利氏に取り込まれていたが、能島村上家はあくまで独立勢力であり武吉もまた毛利家に臣従していなかった。実際に毛利が大友と北九州を巡る戦い真っ只中に大友宗麟へ加担し大内輝弘の山口侵攻を事実上手引きしたり浦上宗景を支援している。のち毛利・河野・来島・因島勢の攻撃に敗れ元就の孫・毛利輝元に臣従することになった。織田信長との戦いでは長男・元吉を向かわせ第一次木津川口の戦いで村上水軍の名を知らしめている。信長死後、豊臣秀吉の調略を受けて豊臣方に付いた来島通総を攻め来島を占領。しかし、毛利家が豊臣家に臣従した後でも秀吉の来島返還命令を守らなかったために隆景に攻められ降伏。その後も秀吉が通総を可愛がっていたのとは対照的に武吉への風当たりは強くなり海賊禁止令違反の容疑を掛けられている。その後は安芸国竹原や筑前国名島に移り住み小早川家臣として隆景と養嗣子・小早川秀秋に仕えた。が秀吉の死と秀秋の改易もあり毛利家に帰参。そして関ヶ原の戦いから4年後、長門国豊浦において生涯を終えた。


子どもたち編集

  • 長男:村上元吉…加藤嘉明と戦い討死。
  • 次男:村上景親…元吉とは別家を建てた。

ちなみに娘もいるが、これを和田竜が翻案したのが『村上海賊の娘』の主人公・村上景(きょう)である。


関連項目編集

戦国武将 中国勢

毛利元就 村上水軍 村上海賊の娘

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