中国地方は安芸(広島県西部)の戦国時代・安土桃山時代~江戸時代前期の戦国武将。
生涯
幼年期
天文22年1月22日(1553年2月4日)、安芸毛利氏当主・毛利隆元の嫡男として吉田郡山城にて誕生。幼名は「幸鶴丸」。母・尾崎局の実父は大内家家臣・内藤興盛で、養父は大内家当主・大内義隆。
永禄6年(1563年)、11歳の時に父が急死したのを受け家督を相続。幼年であった事から祖父・毛利元就が後見に当たり、実権を握った。翌々年の永禄8年(1565年)には、室町幕府13代将軍・足利義輝より偏諱を受け、「輝」の一字を取って輝元と名乗り元服を果たす。また同年には月山富田城の戦いにも参加し、ここで初陣も飾った。
元亀2年(1571年)に元就が没した後は、吉川元春・小早川隆景の二人の叔父による「毛利両川体制」の補佐を受ける形で親政を開始。以降豊後の大友宗麟や、尼子勝久を擁する尼子氏の残党などと、九州・中国の覇権争いを続けた。
信長包囲網
天正4年(1576年)、織田信長に追放された足利義昭が毛利領の備後・鞆の浦に落ち延びて来た事は、その後の毛利氏の運命を大きく変えるものとなった。この時輝元は義昭を保護し、対する義昭からは副将軍に任ぜられている。
一方で輝元は当初、信長とも義昭の処遇について折衝を重ねており、この時点では両者の関係も決して険悪なものではなかった。しかし信長と敵対していた石山本願寺への支援、それに両者が勢力圏を接する事となった播磨他での騒乱などが原因でその関係も破綻を迎え、毛利氏は義昭の呼びかけによる「信長包囲網」の一翼を担う事となった。
以降、毛利氏は主に播磨や備前を中心に織田氏とぶつかり合う事となり、天正4年7月には毛利水軍が織田水軍を撃破(第一次木津川口の戦い)、さらに天正6年(1578年)には播磨の上月城を包囲し、これを陥落せしめている。この時上月城を守っていたのが前出の尼子勝久であり、毛利氏はこの戦いで織田氏に優位に立つと共に、長年の懸案であった尼子氏残党の討滅にも成功したのである。
しかし当初は優勢だった信長包囲網も、同年春に上杉謙信が亡くなったことを皮切りに劣勢へ転じていく。秋には毛利水軍が、鉄甲船を動員した九鬼嘉隆率いる水軍に敗れる(第二次木津川口の戦い)。さらに翌年には毛利氏の傘下にあった備前の宇喜多直家が離反するなど、毛利氏を取り巻く情勢も次第に厳しくなっていった。
天正8年(1580年)に入ると情勢はさらに悪化し、本願寺顕如が信長と和睦し一連の石山合戦も終結、さらに武田勝頼が滅亡した事で信長包囲網は事実上の瓦解を迎える。これにより後顧の憂いを断った信長はいよいよ毛利氏への反攻を本格化させ、羽柴秀吉の指揮する中国方面軍によって三木城、鳥取城など毛利方の諸城も相次いで陥落。さらに織田軍だけでなく豊後の大友氏などの周辺諸勢力もこの機に乗じて攻勢を強めるなど、毛利氏の苦境はここに極まる事となった。しかし・・・
豊臣政権下にて
天正10年(1582年)、秀吉による備中高松城の水攻めが続く中、事態は思わぬ展開を見せる。6月に起こった本能寺の変で信長が討たれると、これをいち早く知った秀吉は信長を死に追いやった明智光秀を討つべく、毛利側にその事実を隠したまま早々に和睦を結んで撤退。高松城主・清水宗治の犠牲もあったものの、これにより輝元は最悪の危機を脱した。
その後毛利氏はしばらくの間、中央の情勢を見極めるべく中立の姿勢を取った。やがて秀吉が賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破ると、輝元は秀吉を次の天下人と見定め接近、一族の小早川元総(秀包)と吉川経言(広家)を人質に出す事で臣従の意を示している。これにより毛利氏は平和裏の内に、それまでの領土をほぼほぼ維持する事に成功したのである。
それ以来、輝元は四国攻めや九州征伐にて先鋒を務め、2度の朝鮮出兵にも主力軍を派遣するなど、秀吉の全国統一や対外戦争にも貢献。一方で天正16年(1588年)に上洛した際には豊臣姓と羽柴の名字も賜り、後には従三位権中納言にも任官され安芸中納言とも称されるようになった。
こうして豊臣政権下での地位を確立する一方、天正17年(1589年)からは広島城の築城にも着手、これを毛利氏の新たな本拠と定めている。しかし天正14年には吉川元春が逝去、さらに慶長2年(1597年)には小早川隆景、穂井田元清も相次いで亡くなり、それまで輝元を補佐してきた有力な一門衆を失っていく事となる。特に隆景の死により生じた、旧小早川家臣の帰参に係わる問題や所領返還の問題などは、輝元にとっては頭痛の種ともなった。
とはいえ、老境に入って久しい秀吉からの信任は依然篤かった。慶長2年には五大老に任じられ、翌年の秀吉臨終の際には、まだ幼年の豊臣秀頼の補佐を任されている。
関ヶ原の戦い
秀吉薨去後、豊臣政権内では五大老の一人・徳川家康が他の大名よりも段違いの権力を持つ事になった。これに反発を覚えていた奉行衆の石田三成の説得を受けた輝元は、三成、前田玄以、長束正家、増田長盛による「太閤亡き後、秀頼様の意思よりも五奉行の意思を優先させる」という内容の起請文作成に協力。結果的に三成による秀吉の遺命破りに加担してしまい、これを機に家康と三成の対立は激化してしまう事になる。
やがて三成の失脚を経て家康が政権内の第一人者に昇り詰める。慶長5年(1600年)に五大老に名を連ねていた会津の上杉景勝を討伐すべく家康が動くと、三成や三奉行らを中心とした反家康派が挙兵に及んだ。諸国の大名も家康派の東軍と、反家康派の西軍に二分されていく。
しかしこの時、毛利家中でも去就を巡って紛糾する中、輝元は毛利氏の外交僧・安国寺恵瓊の説得を受ける形で、西軍の総大将として擁立される事となる。これはほぼ輝元の独断であり、総大将への就任を毛利一門や重臣たちに諮らず決した事が家中では大きな問題となった。
特に予てから恵瓊と反目し、東軍側の諸将とも気脈を通じていた吉川広家は一連の動きに危機感を募らせ、毛利氏重臣・福原広俊らと共に黒田長政を介して家康への内通を図るようになるなど、家中も東西どちらに付くかで分裂状態に陥ったのである。
やがて迎えた関ヶ原の戦いにおいて、輝元は毛利一門から毛利秀元と吉川広家らを派遣するも、自身は三成らの再三の要請にもかかわらず大坂城から一歩も動かぬ姿勢を通した。その背景には本戦の直前、岐阜城の陥落の報せに接した輝元が広家を通じて家康との交渉に当たらせ、毛利軍が不戦を貫く代わりに本領安堵と家名存続の密約を取り付けていた、という事情があった。
またそれとは別に、輝元が大坂城から動かなかったのは、この動乱に乗じて毛利氏の勢力圏を広げんとする輝元個人の思惑もあったようである。実際に阿波では蜂須賀家政の身柄を押さえて徳島城を占拠した。また伊予においては河野氏残党を扇動し、東軍に付いていた藤堂高虎や加藤嘉明の領土切り取りを狙っての軍事行動(三津浜夜襲)に及んでもいる。こうした輝元の思惑の矛先は、あろう事か同じ西軍方の毛利吉成(勝信、毛利勝永の父)にまでも向けられた。伏見城攻めでの損耗に付け込んで豊前の吉成の領地を、黒田方からの防衛という名目で占領せしめてもいる。
そして西軍敗北・東軍勝利の報せを受け取ると、輝元は家中の主戦派の意見を抑え、家康に対しこれ以上の敵意のない事を示すべく自ら城より退去した。
ここまではうまくいったと思っていた輝元であったのだが、勝利した家康が大坂城入りを果たした後、ある事実の発覚により一転して窮地に追い込まれてしまう。前述の通り、輝元は関ヶ原の戦いで家康と敵対しない事を密かに約束していた。しかし、後に戦いが東軍の不利となりつつあるという知らせを聞いたのか、輝元は自らの保身を優先するあまり、西軍出兵に関する連判状の数々に自らの花押を押してしまうという迂闊過ぎるミスを犯していたのである。
当然この事実は、家康率いる徳川氏の側から見れば明確な「約束違反」に他ならなかった。家康もまた先の約束を反故にして輝元の改易と、毛利領の内周防・長門の二カ国を広家に与えるという処分を下そうとする。しかし毛利氏存続の為に広家が必死の懇願におよび、さらに徳川家中でも戦後処理を担当していた井伊直政から異論が呈された事もあり、結局毛利氏に対する仕置きは輝元の嫡男・秀就に対して、前出の二カ国を安堵するという形で決着を見る。
こうして、従前の112万石から29万8千石と大幅な減封となったものの、首の皮一枚の状態で毛利氏は改易を逃れる事になった。
江戸期
関ヶ原の戦いの直後となる慶長5年10月、輝元は出家して幻庵宗瑞と号し、家督を秀就に譲った。しかしその後も輝元が実質的に藩政を司っており、この事から輝元は歴代藩主とは別に長州藩の「藩祖」として扱われている。江戸幕府成立後は萩城を居城とし、家中統制の為の粛清(五郎太石事件)や検地による石高直しにも携わり、また関ヶ原前後より続く家中の分裂の解消にも努めた。
ところが慶長19年(1614年)、またしても輝元の取った行動をきっかけに、毛利氏の存続をも揺るがしかねない問題が発生する。同年より始まった大坂の陣で輝元は幕府側を支援する一方、重臣・内藤元盛(佐野道可)を大坂城に派遣しており、この事が戦後に幕府との間で問題になったのである(佐野道可事件)。
この時輝元は自身の関知せぬところであったと釈明に及びつつ、元盛の遺児たちを口封じのために自刃・幽閉に追い込む事で、辛うじて毛利氏を守っている。但しこの事件について、元盛は天正年間の時点で既に毛利家中より追放されており、佐野道可と称して大坂方に付いたのも本当に輝元の与り知らぬ行動であったのではないか、とする見解も呈されている。
ともあれ、晩年に至るまで大小様々な波乱を巻き起こして来た輝元も、元和9年(1623年)に正式に隠居し、翌々年の寛永2年4月27日(1625年6月2日)に萩にて73歳の天寿を全うした。
人物
慶長の役で捕虜となった朝鮮の官人・姜沆によれば、「慎み深くゆったりとおおらかな人物」とその人柄を評しており、また「朝鮮出兵の時、彼だけは朝鮮人の鼻削ぎなどの残虐行為を見て哀れだと思う心を持っていた」と称えてもいる。一方で、若かりし頃に側室である二の丸殿に執心し、彼女の最初の嫁ぎ先である家臣からこれを奪ったという逸話もあり、良くも悪くもお坊ちゃまな気質の持ち主である事が窺える。
しかしそれ以上にクローズアップされがちなのが、「優柔不断でいざという時の決断力に欠ける」「祖父や父に比べて凡庸」などといった部分であり、後世においても芳しくない評価を受ける事も少なくはない。もっとも、父親は自分が若いころに早くに亡くなり、祖父に「父は、40の歳まで指導していたのに、まだ15の私を、なぜ見捨てるのですか」と説得し、その祖父も10代後半に亡くなってしまっており、不幸だったといえる。
幼年期に元就や叔父から体罰を伴うかなり厳しい教育を受け、長じてからも「両川」が実質的に家中の差配を行っていた事などが、輝元の人格形成や上記したような評価の数々に繋がっているとも見られている。中でも、関ヶ原の戦いでの去就とそれに伴う大幅な減封が、これらの評価を決定付けた節があるのは否めず、輝元自身も戦いの後、「近頃の世は万事逆さまで、主君が家臣に助けられるという無様なことになっている」と、自身の非力さを嘆いたと伝わっている。
とはいえ、江戸期に入ってからは減封後の長州藩を実質的に主導し、経済・法治の両面から領国の立て直しを図る一方、強引な手を用いてでも家臣の統率にも心を配り、幕末に至るまでの基礎を築き上げるなど、父・隆元譲りの内政の手腕も少なからず発揮しており、必ずしも凡庸とは言い難い側面も備えていたのは確かである。
また主体性のない行動の最たるものと、長らく見做されてきた関ヶ原の戦いについても評価が変わりつつある。昨今の研究から輝元の動向が明らかにされていくにつれ、当初より輝元が主導的な立場にあったという見方も出てきた。また同時期には五大老の立場を利用し、四国や北九州に兵を派遣して領土拡大に向けた動きも見せているなど、結果はともあれ単なる「神輿の大将」の域に留まらない積極性を発揮していた節も見られる。
乱世を生き抜くには頼りない、というより危ういところは多分にあれど、平時における為政者としての手腕には見るべき部分も無い訳ではない・・・それが毛利輝元という人物なのかも知れない。
創作物の輝元
戦国無双
手前は元就。後ろが輝元。
武器:刀剣(2) 槍(3) CV:山田真一(2)、岡本寛志(3)
「毛利の力、貸すぞ!…皆で力を合わせようぞ!」(2猛将伝の天正御前仕合の台詞)
「毛利元就が孫・輝元!祖父譲りの知略を見ろ!」(3Emp特殊台詞)
戦国無双2から登場。2では大阪湾で一揆衆の兵糧を運んでくる程度の活躍だったが、戦国無双3では隠居を願う元就に対して、大殿(元就)が居ないと毛利家が不安と言い出し、元就を再び戦場に掻き出す要因となった。木津川口に阿国が乱入した際、出雲に連れて帰ろうとする阿国に対し、元就を必死に守ったり、「ぬああぁぁぁい!!」(表記上は『なあい!』)と叫んだり、結局さらわれて「ええええぇぇぇぇっ!」と叫ぶ等大活躍をしていた。
5では固有武将として登場。
無双奥義・無双秘奥義の文字…【努】『進』
区分:固有武将
得意武器:薙刀
所属:毛利
CV:小野将夢
元就の孫。毛利の後継。
ちなみに100万人の戦国無双でも登場。
恐らく3の先程の件で人気を得たためか、デザインが3そのものに毛利家の服装を含んだアレンジになっている。他は一人称が「ボク」になり、元就を「爺上(様)」と呼んでいる。(大殿だと他人になってしまうためか)他人任せな3に対し、「自分がしっかりしなきゃ…」と前向きな姿勢はとっているものの何故か巨大な百万一心盾で身構えている。
二次創作では従弟の広家と秀秋との絡みも多いが、天然が入りボケ役に回る事が多い
毛利輝元(戦国大戦)
『泰平の世が訪れるまで、僕ががんばらないと・・・』
左が輝元、右は小早川隆景
概要
「15XX五畿七道の雄」より追加された新勢力、毛利家のRとして参戦。二つ名は「幼き当主」。家督を継承したばかりの少年の姿で、毛利家共通意匠の眼鏡をかけたデザイン。兵種は弓足軽。武力・統率ともコストに比べるとやや物足りないが、特技は防柵と魅力を所持しているため総合的なスペックはいい方。
固有計略『求心なき采配』は味方武将の武力を上げ、統率力を下げる采配。低めの消費士気に対し武力はそれなりに上がるためもう一押しの際には非常に有用。対して統率力が下がるため毛利家のメイン特技である焙烙とはやや相性が悪い。
『僕は、お爺様みたいにはなれない・・・』
『毛利家の結束、御覧に入れましょう!』
「1590葵関八州に起つ」では当主となった2人目の青年輝元が登場。レアリティはSRで、二つ名は「三矢の継承者」。気弱で少々アホの子の気があるものの、二人の偉大な叔父や父譲りの徳に惹かれ集った家臣たちに支えられる名君に成長した。
兵種は槍足軽。コストと武力はそのままに統率が大幅に上がり、特技は父と同じ制圧と魅力に変更された。固有計略『三弓の下命』は範囲内の毛利家の武将の武力を上げ、さらに兵種が弓足軽の場合追加効果を与える采配。敵3部隊に同時に弓攻撃を可能にする、移動中も弓攻撃を可能にするなど対象にした武将の数に応じて効果を臨機応変に変えることができる。
『祖父と父が築きし国・・・私は守り続けます』
毛利元就 誓いの三矢
隆元急死後から家臣として操作可能になる。隆元の能力・道具を引き継ぐが兵種は豪族へ変わる。元就が寿命で死去すると輝元が主人公となり物語は続行される。本能寺の変を知ると羽柴軍追撃を決断、ここから物語は史実から大幅に外れて輝元率いる毛利家は天下統一を目指すことになる。