月山富田城
がっさんとだじょう
戦国時代に中国地方で猛威を奮った戦国大名尼子氏の本拠地で、国指定史跡となっている。
標高約180mの月山の山上に本丸があり、山を下りるにしたがって無数の曲輪が配され、麓に城主の居城や家臣の屋敷、外に城下町が広がっていた。
現在ある遺構(石垣、曲輪、堀切、井戸の痕跡などが残されている)や城の絵図に描かれた姿は吉川広家や堀尾忠氏(吉晴の嫡子)が手を入れた時期の富田城であり、それ以前の城の姿は判明していない。
鎌倉時代になり源実朝の死後に発生した承久の乱の戦功で出雲・隠岐の守護職を得た近江源氏佐々木秀義の五男・義清は月山富田城に入り出雲に土着。以降、義清の子孫は出雲源氏と呼ばれるようになり、子孫の富田氏が城主を務めた。
南北朝時代には山名時氏や佐々木道誉が出雲守護となり彼らは富田城に目代を置いた。のち山名氏清・満幸が足利義満に滅ぼされ山名氏が没落すると出雲守護職は再び京極氏のものとなった。その後、京極高詮の甥で近江から出雲に赴任した尼子持久が出雲守護代と富田城主となり清定・経久と出雲尼子氏が世襲した。
経久は主君・京極政経により一度は追放されたものの、京極氏のお家騒動の隙に富田城を奪回。そして本城を中心に中国地方各地を支配していき「謀聖」の二つ名を与えられた。
経久や孫で後継の尼子晴久によって富田城も大大名の本拠地に相応しい城に修築され、規模も大幅に拡大したが、晴久の嫡子・義久が「謀神」毛利元就との戦いに敗れ開城し滅亡。毛利氏時代でも山陰方面の最重要拠点であり続け元就や後継の輝元は毛利元秋(元就五男)・末次元康(元就八男)を城主に据えた。のち豊臣秀吉の命令で元康は備後神辺城に移され吉川広家が城主となった。関ヶ原の戦いで毛利家は出雲を喪失し広家は周防岩国に移り、新たに徳川家康の命で遠江浜松から堀尾忠氏が入城し隠居していた父・吉晴も越前府中から移った。
忠氏の死後に後を継いだ忠氏の嫡子・忠晴を後見した吉晴は本拠地を新たに築城した松江城(当時は末次城)に移し、富田城は廃城となった。
現在は土塁や堀尾氏時代の石垣などの遺構が残っており、足立美術館からも見ることができる。