ピクシブ百科事典は2024年5月28日付でプライバシーポリシーを改定しました。改訂履歴

目次 [非表示]

生没年 1344(興国5/康永)3年~1392(元中8/明徳2)年


生涯編集

侍所頭人、伯耆他7か国の守護を務めた山名時氏の四男。

1371(建徳2/応安4)年に時氏が死去した後に丹波守護職を受け継ぎ、1377(天授3/永和3)年には侍所頭人に就任した。

しかし、1376(天授2/永和2)年に山名氏惣領だった長兄の師義の跡を継いだのが、弟の義幸であったことから不満を持ち常に対立関係にあった。


明徳の乱編集

そこに付け込んだのが3代将軍・足利義満であった。この頃山名一族全体の守護職が11か国にまで及ぶ大勢力となっており、将軍権力の強化を目指す義満にとっては山名氏の弱体化は必須となっていた。

1389(元中6/康応元)年に義幸が死に、その跡を義幸の子・時煕が継いだが、翌90(元中7/明徳元)年に、「生前の時幸と時煕、氏之(師義の次男で時幸の養子)が幕府に対し不遜な態度をとっている」との理由で、氏清と氏之の弟で氏清の娘婿でもある満幸に討伐を命じた。

1391(元中8/明徳2)年に時煕・氏之は敗れて逃亡、氏清は戦功として但馬・山城の守護職を与えられたが、それから間もなく義満が時煕・氏之を赦免するとの噂が流れ始める。

さらに同年11月に満幸が出雲守護職をはく奪されてしまったことで強い不満を持ち、舅の氏清に対し「将軍のやり方は山名氏を滅ぼそうとするものである」と訴える。同調した氏清は南朝に降り、錦の御旗を賜って「南朝の官軍」として京都へ攻め入った。

これに対し義満も幕府軍をもって迎え撃ち、和泉から攻め込んだ氏清軍と丹波から攻め込んだ満幸軍は個々に撃破されてしまい、氏清は戦死、満幸は1395(応永2)年に京都に潜伏していたところを発見され処刑された。


戦前11か国の守護職を保持していた山名氏は戦後、但馬(時煕)・伯耆(氏之)・因幡(氏家(氏清の兄・氏冬の子)の3か国まで守護職を減らした。しかし8年後の1399(応永8)年に起きた応永の乱で3か国が加増されて息を吹き返し、さらに50年後の1441(嘉吉元)年の嘉吉の乱鎮圧戦で時煕の3男・持豊が戦功をあげたことでさらに3か国が加増され、半世紀の時を経てほぼ全盛期の勢力を取り戻すことができた。


関連タグ編集

南北朝時代 足利義満

関連記事

親記事

室町時代 むろまちじだい

兄弟記事

pixivに投稿されたイラスト pixivでイラストを見る

このタグがついたpixivの作品閲覧データ 総閲覧数: 28

コメント

問題を報告

0/3000

編集可能な部分に問題がある場合について 記事本文などに問題がある場合、ご自身での調整をお願いいたします。
問題のある行動が繰り返される場合、対象ユーザーのプロフィールページ内の「問題を報告」からご連絡ください。

報告を送信しました

見出し単位で編集できるようになりました