生没年 1344(興国5/康永)3年~1392(元中8/明徳2)年
生涯
1371(建徳2/応安4)年に時氏が死去した後に丹波守護職を受け継ぎ、1377(天授3/永和3)年には侍所頭人に就任した。
しかし、1376(天授2/永和2)年に山名氏惣領だった長兄の師義の跡を継いだのが、弟の義幸であったことから不満を持ち常に対立関係にあった。
明徳の乱
そこに付け込んだのが3代将軍・足利義満であった。この頃山名一族全体の守護職が11か国にまで及ぶ大勢力となっており、将軍権力の強化を目指す義満にとっては山名氏の弱体化は必須となっていた。
1389(元中6/康応元)年に義幸が死に、その跡を義幸の子・時煕が継いだが、翌90(元中7/明徳元)年に、「生前の時幸と時煕、氏之(師義の次男で時幸の養子)が幕府に対し不遜な態度をとっている」との理由で、氏清と氏之の弟で氏清の娘婿でもある満幸に討伐を命じた。
1391(元中8/明徳2)年に時煕・氏之は敗れて逃亡、氏清は戦功として但馬・山城の守護職を与えられたが、それから間もなく義満が時煕・氏之を赦免するとの噂が流れ始める。
さらに同年11月に満幸が出雲守護職をはく奪されてしまったことで強い不満を持ち、舅の氏清に対し「将軍のやり方は山名氏を滅ぼそうとするものである」と訴える。同調した氏清は南朝に降り、錦の御旗を賜って「南朝の官軍」として京都へ攻め入った。
これに対し義満も幕府軍をもって迎え撃ち、和泉から攻め込んだ氏清軍と丹波から攻め込んだ満幸軍は個々に撃破されてしまい、氏清は戦死、満幸は1395(応永2)年に京都に潜伏していたところを発見され処刑された。
戦前11か国の守護職を保持していた山名氏は戦後、但馬(時煕)・伯耆(氏之)・因幡(氏家(氏清の兄・氏冬の子)の3か国まで守護職を減らした。しかし8年後の1399(応永8)年に起きた応永の乱で3か国が加増されて息を吹き返し、さらに50年後の1441(嘉吉元)年の嘉吉の乱鎮圧戦で時煕の3男・持豊が戦功をあげたことでさらに3か国が加増され、半世紀の時を経てほぼ全盛期の勢力を取り戻すことができた。