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山名宗全

やまなそうぜん

但馬守護大名。嘉吉の乱などで活躍し没落した山名家の勢力回復に成功。娘婿の細川勝元と対立し応仁の乱を起こす
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概要編集

本名:山名持豊。応仁の乱の西軍を率いた。東軍からは宗全入道、赤入道とよばれた。


祖父の兄である山名氏清の時代は山名一族の領国は、伯耆但馬紀伊和泉など11ヵ国を領有し、「六分の一殿」と呼ばれていた。しかし足利義満と戦って山名氏は敗れ、領国の多くが没収され、山名氏は没落した。


持豊の父・山名時熙は足利義満〜足利義教に仕え、1434年(永享6年)に69歳で死去。時煕には3人の男子がいたが、長男は若くして逝去、次男は義教の怒りを買って追放されたため、三男の持豊が家督を継ぐことになった。


転機が訪れたのは1441年(嘉吉元年)、赤松満祐は息子と謀って足利義教を暗殺。持豊は、赤松氏討伐のための軍の総大将に任じられる。赤松氏の城を包囲して追い詰め、赤松満祐を自刃させると、山名宗全は軍功を認められ、赤松氏の旧領などを獲得。新たに竹田城を築城し、山名氏の勢いは増大していった。


1449年(文安6年)、15歳になった足利義政は室町幕府8代将軍に就任し、積極的に政務を行おうとするも、将軍不在時に実力を付けていった山名氏は若き将軍を侮って無視する。


1454年(享徳3年)、ついに業を煮やした義政は、宗全の討伐令を発布。このときは娘婿細川勝元の取り成しで許されるが、山名宗全は嫡男山名教豊に家督を譲って隠居し、領国の但馬国で謹慎。なお、4年後の1458年(長禄2年)に、山名宗全は許されて京へ戻る。


1467年(応仁元年)、山名宗全の進言で義政に出仕を禁じられた畠山政長が自邸に火を放ち、上御霊林に陣を敷いた。応仁の乱の幕開けである。


1473年(文明5年)3月18日、山名宗全が享年70歳で病死し、その2ヵ月後に細川勝元も享年44歳で急死。戦いは急速に終息へ向かい、1477年(文明9年)に終結します。戦火にのまれた京都は焼け野原となり、将軍の威光も地に落ちてしまった結果、武将達が力を強め、戦国時代へと突入する。


人物編集

  • 「およそ例という文字をば、向後は時という文字に変えて、お心得あるべし」⋯塵塚物語に収録されている逸話。先例を重んずる公卿に対し「先例に従えば公卿と武士の私が対等に話してる事が可笑しいでしょう?」と返して論破する。
  • 政治欲に乏しく、軍人気質だったとされる。
  • 心優しい一面もあり、病気の家臣を労わったり、死去した家臣を悼んだりしている。
  • 一休は山名宗全の事を毘沙門天の化身と形容している。宗全自身も毘沙門天に特別の想いがあったのか、兵庫県朝来市の鷲原寺に宗全が寄進した毘沙門天像がある。

創作では編集

新九郎、奔る!編集

主人公の伊勢新九郎に対し、半ば冗談ではあるものの命を狙おうとし、あとから来た細川勝元に静止される。



関連タグ編集

室町時代 応仁の乱 守護大名

花の乱 萬屋錦之介


参考編集

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