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室町幕府第3代征夷大将軍。TVアニメ『一休さん』での活躍?ぶりでも有名。

生涯

幼少期

室町幕府第2代将軍足利義詮の嫡男。母は紀良子。同母弟に足利満詮がいる。義満の誕生100日前に祖父の足利尊氏が伯父の足利直冬との戦いで受けた矢傷が元で死去し、尊氏の後を継いだ義詮は南朝との戦いに追われていた。1361年、南朝に寝返った足利家元執事の細川清氏が大叔父・足利直義の残党である石塔頼房楠木正儀らと共に京都を制圧する事件も起こり、義満は一時播磨白旗城赤松則祐に保護され養育された。帰京後の貞治5年(1366年)に「貞治の政変」が発生し管領の斯波義将とその父の足利高経が佐々木道誉細川頼之により失脚し越前杣山城に逼塞。その後、叔父で鎌倉公方の足利基氏や道誉の推挙により後任の管領に就任したのが前述の頼之であり彼は義満と深く関わることになる。同年、春王は元服し後光厳天皇から義満の名を賜った。

家督相続、将軍職就任

1367年に父・義詮と叔父・基氏が死去。義満は足利宗家の家督を継ぎ、翌1368年に10歳で将軍宣下を受け3代将軍に就任し、鎌倉公方は基氏の嫡子の足利氏満が継いだ。義詮は10年弱の治世で新田義興や細川清氏らの南朝方の有力武将を滅ぼし仁木義長・桃井直常・石塔頼房といった直義派の残党も幕府に帰参していた。しかし山名時氏大内弘世といった有力守護大名は所領安堵を条件に南朝方から幕府に降ったに過ぎず、両家はその後も守護国を増やして強大化していった。義満の前には、これら強大な外様の守護大名がいずれ決着をつけるべき大敵として立ちふさがることになる。

まだ幼い義満の将軍職は、実際には頼之が代行し、頼之は南北朝の混乱を鎮めて幕府の基盤を築いていった。応安五年(1372年)に義満は判始(自分の花押=サインで政務処理を行うの意)の儀式を行ったものの、実務は頼之が行っていたらしい。

「花の御所」造営

義満は天授4年(1378年)から北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地に新邸宅の造営を始め従来の三条坊門第から新邸宅に移住した。康暦三年(1381年)に完成した新邸宅すなわち室町御所は鴨川の水を引き、四季の花々に彩られたことから別名を「花の御所」とも呼ばれた。この屋敷にちなんで義満は室町殿と呼ばれ、後の将軍たちも(必ずしも室町に屋敷を構えずとも)室町殿と呼ばれ、ついには後世、この時代が室町時代と呼ばれることになった。

康暦の政変

花の御所の造営を開始した翌年に当たる康暦元年(1379年)、「貞治の政変」以来の遺恨がある斯波義将は同じく反頼之派の京極高秀(佐々木道誉の子)や土岐頼康らの軍勢と共に頼之の罷免を求め大軍で花の御所を包囲し観応の擾乱の時の高師直による「御所巻」が再現され、義将に呼応して鎌倉の氏満までも挙兵して上洛しようとした。義満は抵抗したものの、遂に義将の要求に折れ頼之を解任し頼之は阿波で隠遁した。これまでの南北朝時代なら頼之は南朝に寝返るのだろうが、頼之は義将による四国遠征軍を破った後も隠遁を続けた。義満は頼之の赦免を命じ、二年後には養子の細川頼元が幕府に出仕、後に管領となり、頼之も上洛して義満の政治を助けている。この経緯からして、義満は諸将と対立する危険を冒してでも頼之を重んじていたように見える。一方で細川氏と斯波氏を互いに牽制させて頼之の力を削ぎ自己権力の強化に繋げたとの説もある。氏満は関東管領の山内上杉憲春が諫死したことで挙兵を思い留まった。のち氏満は義満に謝罪し許されたものの義満はその後も氏満に圧迫を加えていった。その後も足利将軍と鎌倉公方の緊張関係が続くことになる。

公家としてもトップに

将軍就任後の義満は公家社会でも順調に出世していく。9歳で従五位下、続いて従三位権大納言、従一位内大臣、永徳二年(1382年)には左大臣となって実質的に公家のトップに上りつめる。祖父の尊氏や父の義詮は権大納言が限界であったのだから、大変な出世ぶりである。元関白の二条良基が、この青年将軍に色々と公家社会の礼儀や和歌管弦といった教養について指南し「大樹扶持の人」と呼ばれていたらしい(新田一郎『太平記の時代』)。この出世は何をもたらしたのか。康暦二年(1380年)、本来なら天皇や上皇の意を受けて奉書(命令)を発する伝奏という職にあった万里小路嗣房が、義満の意による奉書を書き始める。こうして義満は後円融天皇の了解を得て自ら奉書の発給を代行するようになり、公武の政治が統一されることになった(森茂暁『南北朝の動乱』)。

ちなみに征夷大将軍が「大樹」と呼ばれるようになったのは義満が初めてである。

土岐康行の乱、明徳の乱

義満は次に武家の棟梁として、有力守護大名の勢力を押さえる仕事に取り掛かる。まずは御馬廻(おうままわり)と呼ばれる直轄親衛隊を増強し、後に室町将軍家を支えた奉公衆の基盤を築いた。手始めに土岐氏に挑む。嘉慶元年(1387年)に美濃・尾張・伊勢の守護であった土岐頼康が死去すると土岐家に内紛を起こさせ宗家を継いだ頼康の甥である土岐康行を討伐。土岐氏は美濃一国の大名に転落した。次に山名氏を標的にする。この頃に山名氏の守護国は一族で十一カ国にも及び、日本全国六十六か国に対する「六分の一衆」と恐れられた。これにも義満は一族の内紛を誘発させて対処し、明徳二年(1391年)京都内野の戦いに挑んで自ら御馬廻を率いて山名氏清(時氏の子)・山名満幸(氏清の婿)を滅ぼす(明徳の乱)。山名一族の守護国は僅か三カ国に転落した。

南北朝合一、北山第造営

こうして武力で諸武家を圧倒した義満は、明徳3年(1392年)には南北朝合一を果たす。応永元年(1394年)に太政大臣に任ぜられ、同年、出家し将軍職を嫡男の足利義持に譲り北山第に移るものの、政治上の実権はなお握っていた。公武の最高位を極め、さらに出家により寺社勢力をも圧倒するに至った。

九州探題今川了俊罷免

建徳元年(1370年)から25年間も九州探題職を務めた今川了俊は弟の仲秋や子の貞臣らと共に九州内の南朝方討伐や倭寇鎮圧などに多大な功を挙げた。さらに了俊は北九州に地盤を築き高麗相手に独自に外交交渉を行える力を持っておりそれが義満の忌むところになった。応永ニ年(1395年)に義満は了俊に上京を命じ上京後、一方的に解任し了俊には遠江半国(もう半国の守護は仲秋)と駿河守護に左遷した。

大内義弘・盛見兄弟との対決

大内弘世の長男・義弘(弘世の長男)は了俊に従っての南朝方との戦いや明徳の乱鎮圧で活躍し、南北朝合一にも一役買っており周防・長門・石見・豊前・和泉・紀伊の守護職を経ていた。さらに瀬戸内海貿易や日朝貿易も押さえる大勢力となっており幕府に取っては先述の了俊以上に目障りな存在になっていた。一方の義弘も応永4年(1397年)末の少弐氏討伐で弟の満弘(弘世の三男)を亡くした際、満弘の子・満世への恩賞の沙汰が無かったことなどから義満への不信感を募らせ憤慨していた。その後、義弘は了俊の仲介で関東公方足利満兼(氏満の子)と密約を結び、応永6年(1399年)に挙兵。本拠地の長門・周防の守りは弟・盛見(弘世の六男)に託し自身は弘茂(弘世の七男)らを率い和泉へ進軍した。これに山名氏清の長男の宮田時清や楠木正儀の子の正勝も呼応し満兼も義弘に加勢するため鎌倉を発ち武蔵府中まで進軍したものの、義弘は堺に城塞を築いて幕府方と激戦したが畠山満家の軍に討ち取られ弘茂らは降伏した。乱後の大内氏の領国は周防・長門だけになり、大内氏は弘茂が継いだ。

ところが周防・長門にいた盛見は義満に反抗的であり、弘茂は幕府の援軍を得て豊後に追放した。しかし、盛見はその後巻き返して逆に長門へ攻め込み弘茂さらにその弟の道通を討ち、甥の満世を降し当主の座を奪った。結局義満は応永12年(1405年)に盛見の家督相続を認め長門・周防ばかりか豊前と筑前の守護職を追加して懐柔した。とはいえ両者の緊張関係は続き盛見は義満存命中は一度も上京しなかった。

鎌倉公方足利満兼との確執

満兼は翌応永7年(1400年)に義弘の戦死を知り鎌倉に軍を返し幕府に恭順の意を示した。義満は満兼を許しはしたものの依然として両者の緊張関係は続いた。特に満兼が陸奥支配のために篠川公方と稲村公方を設置したことに義満は不快感を持ち、領地の割譲を迫られたことなどで応永9年(1402年)、満兼に対して反乱を起こした伊達政宗(正室が母・良子の妹)を義満は支持している。この頃、義満は満兼の調伏を行なっている。

また義満は満兼と義弘を仲介した了俊を許さず、義満は了俊と仲秋が持っていた守護職全てを剥奪し彼らと不仲な甥の今川泰範に与え、関東管領上杉憲定には了俊の討伐令を出した。しかし当の憲定や今川一族から了俊の助命願いが出され了俊は許され堀越郷を喝命所として与えられたが、了俊と貞臣は今川から堀越に改姓させられた。

晩年〜死後

日明貿易(勘合貿易)を推進し永楽帝より『日本国王』号を受ける。晩年に義持の弟・足利義嗣の官位を急上昇させたりしたことで義持との間に不穏な空気が流れたりする中、後述する簒奪計画の謎を残して応永十五年(1408年)に世を去った。享年51歳。翌年には満兼も逝去し鎌倉公方は子の足利持氏が継ぎ、将軍家と鎌倉公方の対立はさらに先鋭化していくことになる。

没後、義持により北山第は金閣寺鹿苑寺)を残して破却された。

人物

簒奪計画?「日本国王」?

公武寺社の全権を極めた義満晩年の行動について、義嗣の天皇即位を狙っていたという説(今谷明『室町の王権』)がある。今谷は義満が百王説を利用しようとしていたとする。『愚管抄』にあるように、百代にして日本の王胤は絶えて天皇を頂点とする秩序は崩壊するという終末論的歴史観があったらしい。数え方によっては、臣下からの不人気ぶりに定評があった当時の後円融天皇を百代目に数えることも可能らしく、そういった正統性の立て方もあったのかもしれない。また義満が御台所の日野康子を後小松天皇の准母にし、義嗣の元服が親王に準じて行われたことを簒奪計画の具体的な一端であったという見方もある(村井章介『分裂する王権と社会』)。しかし、義持を廃して愛息の義嗣を将軍にするための行動に過ぎなかったという懐疑論もある(桜井英治『室町人の精神』)。義満の公家社会における権力は後小松天皇に依拠するものであって、血統を離れて義嗣を天皇に擁立し、しかもそれを仲の悪い将軍・義持に護持させるなど現実的ではないという。

また、義嗣の元服が親王に準じて大臣クラスの加冠役によって行われたのは、彼を親王に準ずる立場に押し上げてはいるが、それと天皇即位とは全く別だという見方もある(森茂暁、同書)。確かに准后という皇族相当の身分が高位貴族に与えられるのは、平安時代初期の摂政藤原良房以来珍しくもなかったりする。

また明帝より得た「日本国王」称号であるが、実はこの称号については両説とも一般に簒奪計画の根拠とはしていない。何故か。義満に先立って、九州を掌握していた後醍醐天皇(南朝)の皇子・懐良親王洪武帝から「日本国王・良懐」の称号を得ているのは知られている。明との貿易で巨利を得て、北朝と戦う軍資金にしようとしたわけだ。しかし、実はこの良懐という名は大宰府が陥落して懐良親王が没落し、さらには死去した後も独り歩きしている。明との貿易を望む諸勢力がこぞって「日本国王・良懐」の使者を自称し、その中には北朝の後円融天皇の使者すら含まれていた(村井章介『分裂する王権と社会』)。またずっと後に足利義教が日明貿易を行った際に、政治顧問であった醍醐寺の僧三宝院満済はこのように述べたという。「天皇が日本国王(つまり明に従う国の王)として明の国書を受け取るのは(天皇は古来中国皇帝と対等であるべきという観念からして)神慮に反し良くないが、大臣が受け取るのは古くから行われており問題ない。明側が将軍を日本国王だと思い込んでいるにすぎないのだ(桜井英治、同書)。」幕府は「義満様が日本国王を称して明を謀って国交を開始したのであるから、これを取り下げるのは義満様の虚偽を外国に示すことになり良くない」と結論して明との貿易を再開している(桜井英治、同書)。少なくとも当時の人々は、南北朝の朝廷も幕府も「日本国王」の称号を実利の為にむしろ積極的に偽称として使っていたようだ。当初はバカ正直に「征夷将軍・源義満」と称して外交交渉をし、洪武帝に「幼君が位にあるからといって臣下が外交の国権を奪うとは許せぬ、礼節に従って大政奉還しなさい」との返書を喰らった義満には、むしろ祖父足利尊氏に通じるお人よs……いや誠実さがあったと考えるべきかもしれない。

北山文化

義満の政策は、文化面でも武家風と公家風が交わり、そこに禅宗の要素も加わった新しい文化をもたらした。これが北山文化である。建築では禅宗様が成立し、義満は公家の寝殿造と禅宗様とを取り入れた北山第を建てた。

演劇では観阿弥世阿弥親子が鎌倉時代以来の田楽の要素を取り入れながら猿楽を発展させ、今日でいうを成立させた。義満はこの親子を庇護し、また義満を通じて公家の二条良基も世阿弥を後援している。

フィクションにおける足利義満

アニメ・ドラマ

CV:キートン山田(アニメ版)

演:東山紀之(ドラマ版)

和尚さま「義満公にも困ったものじゃ」

一休さん「将軍さま~?なんで狼狽えているんですか?」

新右衛門さん「だーから、上様いわんこっちゃな」

将軍様「何か申したか新右衛門」

史実では一休宗純の少年期には将軍職を譲って出家しているが、まあ固いことは言わない。

全盛期幕府の将軍は余程ヒマであったようで、日夜ひたすら一休をトンチで負かすことに夢中である。一休の父といわれる後小松天皇が実は足利義満の胤という説もあったりなんかするので、見ようによっては「孫を構う祖父の図」ということになったりもする……かもしれない。

漫画

  • 学研の人物日本史「足利義満」

広岡ゆうえい氏がイラストを担当。南北朝合一、北山文化の完成、そして裏の主人公でもある剣士の青年と倭寇の物語が絡み合う群像劇風の作品。

作中において平家物語の正本を制定し、それ以外の平家物語を駆逐した。完全に悪役として君臨する義満。大和猿楽の藤若(のちの世阿弥)に惚れており、将軍お抱えの役者にしていた。

ゲーム

コーエーテクモの歴史SLG。

パワーアップキットで追加されたシナリオで室町幕府の君主を務める。史実通りに高スペックの政治力と智謀を誇り、全シナリオを通して日本文化圏最強の武将でもある。

こちらもコーエーテクモの歴史SLG。

祖父の尊氏や一休宗純と共に足利氏の援軍として出演した。

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