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日本国王

にほんこくおう

「日本国王」とは、諸外国から見た近世以前における日本国主の称号。必ずしも天皇のことを指すとは限らない。
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概要

「日本国王」とは近世以前において他国から見た日本の主の称号である。あくまでも外交上で他国が日本の主を呼ぶときの称号であり、日本国内でこの称号が通用した事例は存在しない。そもそも日本側でこの日本国王宛の外交文書を受け取るのが天皇であるとは限らず、中世以降は一般に征夷大将軍等が受け取っていた。


中国歴代王朝の皇帝たちは自ら世界で唯一の皇帝を自称し、他国の支配者は全て諸侯に準ずる「王」という格下の存在と見なしていた。それ故に日本の国主に対して「天皇」という自らと対等な称号を認めることはなく、あくまでも「日本国王」と呼んで外交交渉をする慣例であった。またもちろん、朝鮮半島その他の諸国からも自らより格上の「天皇」という存在を認めるのは余程の必要があるときだけであり、通常は「日本国王」を交渉相手としていた。日本側の返書を作成するときの差出人が「日本国王」と名乗るかどうかもやはり政治的事情に依存していた。


日本国王と呼ばれた人物

  • 天武天皇…天武天皇の子孫である奈良時代の天皇たちは、自国の名をそれまでの倭国ではなく日本国と改めて外交交渉を行った。これ以降、中国側の史書では日本側の交渉相手を「日本国王」と記載するようになる。正確にいつからかは不明であるが、古くとも天武天皇以降らしい。『旧唐書』には小国であった日本が倭国を攻め滅ぼしたという説明があり、これを天武天皇が弘文天皇を滅ぼした壬申の乱のことと解釈する説がある。坂上康俊によれば、朝廷は遣唐使に対してが日本を朝貢国扱いしても無闇に揉めないように命じていた。しかし国内向けには日本国王という称号は当然用いられず、新羅などに対しては日本は宗主国の立場を取るという立場の使い分けが行われていた(坂上康俊「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。遣唐使は奈良時代を通じて盛んに送られたが、皇統が天智天皇の子孫に移った光仁天皇の時から数十年に一度に減少した。坂上によれば、唐の使者が慣例に反して平城京まで来てしまい、天皇が御座から降りて迎えたという事件が関係しているらしい(坂上康俊「帝国の再編」『律令国家の転換と日本』)。やがて菅原道真の建議によって遣唐使は廃止され、日本国王称号は用いられなくなった。

  • 懐良親王後醍醐天皇の皇子。北朝軍と戦うため「日本国王・良懐」と名乗ってに使者を送り、明の援軍を得ようとした。明側としては良懐に好意的であったようで、親王の死後も「日本国王・良懐」の使者を名乗ると交渉も順調に進んだらしい。こうして諸勢力が貿易利益を得るために、勝手に良懐の使者を自称して貿易交渉を行っていた。中には後円融天皇の使者すらも良懐の使いを自称している(村井章介『分裂する王権と社会』)。
  • 足利義満室町幕府第3代征夷大将軍、明と使者のやり取りを行なったおり「日本国王・源道義」を名乗り、勘合貿易を行う。最初は正直に「征夷将軍」と名乗って外交を試みたが、臣下が国王の外交権を奪ってはならないと洪武帝に却下されてしまった。それで義満は自ら日本国王を名乗ったようだ。桜井英治によると、義満の死後は将軍が「日本国王」を名乗ることに幕府内でも議論があったが、しょせん明側が勝手に将軍を日本国王と見なしているにすぎないのだとして、足利義教足利義政らも日本国王宛の国書を受け取っている(桜井英治『室町人の精神』)。明皇帝の勅書を受け取る際に義満が拝礼した事も異論が起こったが、これも拝礼を省略することで決着している。また朝鮮に対しても朝鮮通信使が送られ、ここでも日本国王の称号が用いられている。
  • 豊臣秀吉…文禄の役(文禄元年(1592年))終結後、明は秀吉を「日本国王」に封じるとの条件を出したが、秀吉は激怒し決裂、慶長の役へとつながった。
  • 徳川秀忠…慶長の役の後、朝鮮側は捕虜の返還を求め、日本側は主に対馬藩が貿易の再開を狙って、外交交渉が行われた。1607年(慶長12年)、二代将軍徳川秀忠が朝鮮国王からの日本国王宛国書を受け取っている。幕府としては室町幕府にならって朝鮮通信使を復活させたものと捉えていたらしい。ところが数十年後、対馬藩が外交交渉を上手く成功させるために国書を偽造していたことが発覚した。当時の慣例では、秀忠は日本国王宛の国書を受け取っても返書には称号無しの「源秀忠」とのみ署名していた。室町時代と同じく、他国が勝手に将軍を日本国王と呼んでいるのだという形式を取ったわけだ。ところが対馬藩が朝鮮側に将軍からの国書を渡す際に、署名を「日本国王・源秀忠」と改竄していた。その他いくつもの偽造が発覚して柳川一件と呼ばれることになる。しかし偽造を密告した家老が流罪となり藩主はお咎めなしとなるなど、幕府はそれまで外交を一任してきた経緯から対馬藩を擁護する方向に裁決した。これを受けた寛永13年(1636年)の通信使では、日本国王に代えて「日本国大君」宛の国書を朝鮮側に作成させて三代将軍徳川家光が受け取ることにした。ところが正徳(1715年ごろ)期に新井白石が、朝鮮側に日本国王称号の復活を求めている。というのも、この「大君」という称号は朝鮮では王子の嫡子を示す称号であり、朝鮮国王と対等ではなくずっと格下扱いだと主張したのである。この要求は通信使出発直前に行われたこともあって大きな外交問題として長引いた。朝鮮側は反発したが白石の強硬な要求に折れて、当時の将軍である六代将軍徳川家宣に日本国王宛の国書を送っている。しかし徳川吉宗が八代将軍となると大義名分論には拘らずに「大君」の称号を用いることとした。この慣例から幕末に将軍が欧米列強と交渉する際にも「大君」を称号とし、諸外国には徳川将軍はダイクンの名で伝わることになった。

その他

  • 倭王…古代、と呼ばれていた日本からに使者を送った後、倭王に封じられたケース。先述の通り唐代まで用いられた。
  • 倭の五王…六朝時代の「史書」に記述された五王、「讃」「珍」「済」「興」「武」の五王を指す。歴代の天皇5人のことを指すとも言われるが、いくつかの説がある。

関連タグ

日本史 征夷大将軍

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