概要
生没年 元徳2年(1330年)?~永徳3年・弘和3年(1383年)3月27日
南北朝時代に活躍した南朝方の皇族、「かねよししんのう」「かねながしんのう」とも読む。後醍醐天皇の皇子として生まれ、天皇の命により九州に南朝方の一大拠点を作ったことで知られる。
鎌倉幕府滅亡
元徳3年(1331年)、後醍醐天皇による鎌倉幕府打倒の謀議が発覚、これを重く見た幕府は天皇が、正中元年(1324年)に同様の事件を起こしたこと理由を近臣・日野俊基を逮捕し、天皇を隠岐に配流した。事件はこれで終息したと思われたが、後醍醐帝の子でもある比叡山・延暦寺の天台座主・護良親王が吉野で、楠木正成、新田義貞、赤松円心らの武将が各地で討幕の兵を挙げ、幕府に重用されていた有力御家人・足利高氏も天皇側についたことで、元弘3年(1333年)本拠地・鎌倉を攻められた幕府は滅亡した。
建武の新政の失敗
京の都に還幸した後醍醐天皇は自身の支配体制を確立するため自身の皇子に有力武将をつけて各地に派遣、朝政においては貴族・寺院を優遇・重視する「天皇親政」を志向すべく朝廷を主導した。
鎌倉幕府打倒に貢献した武士たちはこれらの政策に不満を募らせ、建武2年(1335年)、鎌倉幕府残党による「中先代の乱」が勃発、この反乱を口火となって有力武家・足利尊氏(高氏を改名)・直義兄弟が朝廷から離反、後醍醐天皇に廃された光厳上皇の弟・豊仁親王を新たな天皇に立て(光明天皇)、多くの武士が兄弟に従ったことにより、京を追われた後醍醐天皇の親政は失敗に終わった。
南北朝の対立
後醍醐天皇は、この後も京都に帰り朝政に復帰すべく動き、派遣した皇子たちと南朝方有力武将も北朝方と戦いつづける。もちろん、懐良親王も例外ではなく、建武3年・延元元年(1336年)、親王は「征西将軍」に任命され、海路、九州へと派遣された。
天皇の皇子たちの多くが戦死・行方不明となるなか、菊池一族の協力を得た親王は勢力を拡大、筑後川合戦(大保原合戦)にて少弐頼尚を撃破し大宰府を掌握、北部九州を完全に支配下に置いた。
応安4年・顕徳2年(1371年)、「日本国王」の称号を明から与えられ、「良懐(りょうかい)」と名乗るに至った。
九州を席捲するこれらの動きに、翌応安5年・文中元年(1372年)、室町幕府は文武両道に秀でた今川了俊(貞世)を九州探題に任じて派遣、大宰府を追われた親王は「征西将軍」職を返上し、後村上天皇の皇子で甥の良成親王がその後任となった。
永徳3年・弘和3年(1383年)、筑後国矢部において死去した。
「日本国王・良懐」
前述のとおり、親王は「日本国王」の称号を明から与えられている。これらの措置は明にとっては中国沿岸に出没する「倭寇」の取り締まりを親王にやらせようという思惑と、親王にとっては北朝との戦いに明の援軍を得ようとの思惑があり、いわば双方の利害が働いたことによる取引の一環と考えられている。
「日本国王・良懐」の名は親王の死後もひとり歩きしており、親王死後の年号の記した「日本国王・良懐」の国書をもった使者が、幾度も明の都を訪れている。