概要
1368年、貧農から皇帝となった朱元璋(太祖・洪武帝)が、江南(長江の南岸)から挙兵し、それまで中国を支配していた元朝を北に追いやって立てた王朝である。
皇帝独裁が歴代の中国王朝の中でも最も徹底した時代である。名君と暗君の差が激しく、暗君が宦官らに政治を左右されることも珍しくなかった。粛清(特に洪武後期の「胡藍事件」などが有名)や骨肉の争い(後の永楽帝が起こしたクーデター「靖難の変」が有名)など血みどろの政争が目立つ。
海外政策
越(ベトナムなどのインドシナ)を制圧、女真(満州)に関しても初期には勢力として組み込んでいた。
洪武期には海禁政策( 一種の鎖国 )をとり、朝貢(皇帝に対して周辺国の君主が貢物を捧げ皇帝側が君主であると認め恩賜を与えるという形式により成立するもので、本来の目的のほかに貿易としても利用された)以外の交易を禁止していたが、倭寇が沿岸地域で略奪を繰り返していたため、15世紀前半の永楽帝の代になって日本の足利義満と朝貢関係を築いたり、ムスリム出身の鄭和率いる船団で南洋の海賊退治やの交易をおこなうなど積極的な対外進出を試みるようになった。
この航路開発に関しては永楽帝による国内の批判をかわすためともいわれ、従来の陸路であるシルクロードに加えて海路の交易ルート開発で利を得ようとしたことも一因とされ、中国史では珍しく、シャムやビルマ、アラブやアフリカまで影響が広まった。
最後
中期から末期にかけて、モンゴル系勢力や満州族勢力である後金( 後の清 )の侵攻が発生。
その中には宦官の勧めで親征しようとした正統帝が撤退中にオイラトに捕虜となる( 土木の変、オイラトの目的が交易関係の改善だったことと、優秀な部下により新たな皇帝が建てられたり北京が防衛されたり敵の孤立化が行われたため解放された)が発生したりした。
さらに室町幕府の弱体化により再び倭寇(この時期においては中国国内の商人と結びつき、朝鮮やルソンからの海賊もそれに含まれている)の活動が活発化したため「北虜南倭」と称された。
加えて豊臣秀吉による侵攻の動きに李氏朝鮮が太刀打ちできず、朝鮮半島内に進軍する羽目に陥り、ただでさえ疲弊していた国力が破たん状態になる。
1644年、農民反乱を起こした李自成率いる反乱軍に紫禁城を攻められて滅亡した。李自成は順を称して皇帝に即位するが、政権の基盤が整わないうちに、女真族の征服王朝である清と呉三桂(清に服属した明の遺臣達)らの連合軍に敗北し、落ち延びる途中で殺害される。
明の王族は華南で南明を建てて李自成の残党を傘下に入れ、清に抵抗したものの、1662年に滅亡。福建でも鄭成功が明の後継政権を称して台湾を拠点に抵抗したが、1683年に清軍に降伏している。
文化
明代においては皇帝の思想弾圧(その中には言いがかりレベルのものも多数存在し、光、禿、僧などの文字まで弾圧されたとある)があまりにも激しかったため、この時期の文化はそれまで重きをおかれていた漢詩および歴史の分野では見るべきものは少ない。
しかし、大衆にも教育が広がったことにより、小説においては、『金瓶梅』や『三国志演義』、『水滸伝』や『西遊記』といった数々の名作が誕生した。また、世界初のSFともいわれる『封神演义』(「封神演義」の原作)もこの時期に完成したとされる。