『詩経』や『史記』等によれば、殷は夏(か)という国家の家臣であった湯王(天乙)が反乱を起こして夏を滅ぼし建国した国家である。夏の最後の王であった桀は、末喜という美女に溺れて暴政を行い、ついには諸侯の天乙(後の湯王)に倒されたという。夏の存在は未だ考古学的には確認されていないが、二里頭文化の諸地方王権に関する伝説を後世まとめたものが夏王朝と考えられている。
殷についても、20世紀までその存在は伝承でしか伝えられておらず、否定的な学者も少なくなかったが、殷の首都である殷墟(または大邑商)が発掘され、その存在を確認された。
吉本道雅によると、初代王である湯王は、「亳」という地を都にしたとされ、河南省鄭州市の二里岡遺跡等の二里岡文化がこれに相当するとされる。この時期には、現在の山西省夏県や湖北省武漢市にも二里岡文化の城郭が発掘され、殷の勢力が及んでいたという。鄭州市の諸遺跡が廃絶する頃、湖北省の遺跡も廃絶し、殷の領域は縮小したらしい。
盤庚の時代に殷の街に遷都したとされるが、河南省安陽市にある殷墟の遺跡がこれに相当すると考えられている。この時代には高度な文明を持ち、漢字の原点である甲骨文字や複雑な文様の青銅器や大型の青銅器が発掘されている。なお、甲骨文に書かれた国号の自称は「商」であり、殷は後期の都の名前と呼ぶ方が正確である。甲骨文の多くは占卜の文言であり、殷の王は占いによってまつりごとを判断できる神秘的な最高祭司と見なされていた。ほとんどの甲骨文字は、中興の祖である武丁時代以降のものであり、それ以前に関する研究は遺跡の様子や、武丁以降の甲骨資料などに頼らざるを得ないのが現状である。
その支配地は河南省北部、河北省南部であり、その周囲には殷に貢納する諸侯の支配地が広がっており、殷の後期には独自文化が見られるようになる。陝西省西部には後の周王朝となる「先周文化」があり、『竹書紀年』は殷王武乙の時に後の文王の父に当たる季歴という人物が殷に仕えたという。
殷は約500年30代にわたって支配を続ける。
30代殷王の紂王の治世の時代に暴政を敷き民を虐げ、忠臣を廃すなど圧政を行ったという。これにより臣民共に不満を抱き属国である周の武王が反乱を起こし、殷は牧野の戦いで敗れて滅亡したとされている。この周の反乱は『書経』『史記』等により後世に伝わる。また、明代の小説『封神演義』の題材ともなっている。
ただし、殷側の資料では後世に伝えられる紂王の暴君性をうかがわせるものはなく、むしろ勤勉で精力的な王であったようである。また、殷滅亡からさほど遠くない周前期の金文にも、紂王個人に責任を求めてはおらず、「百官の怠惰」としている。
滅亡のきっかけは大規模な反乱の処理に追われ、それ以降甲骨文の数が激減していることから、反乱制圧のために統率力が衰えた際に周に滅ぼされたものと推測する説がある。
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