商(殷)の前にあったとされる王朝。建国者は禹。史記や竹書紀年(春秋戦国の魏で発見された竹簡)などに記録があるものの、伝説的でかつては完全に実在しないものとされていたが、近年夏のものであるとされる遺跡が発見されており、注目されている。
中国神話では三皇五帝といわれる伝説的な人々が統治していたとされる。最後の舜の時代、禹という人物が黄河治水で成果を挙げ、天子の座を譲られる。
禹は中国最初の王朝「夏」を建国、以後その子孫らに天子の位が引き継がれた。しかし、最後の王である桀は横暴で、人民を苦しめたので天乙がこれを倒し、商(殷)王朝を建てたという。
以上のように、記録は神話的でかつては考古学的な根拠もなかったため、実在しないとされてきた。しかし、二里頭文化という、殷以前の時代に存在した遺跡群の発見により実在の可能性に関する議論が活発化している。
この文化は紀元前1900年から1700年と見られ、推定される夏の年代と重なる。さらに、これの中心とされる二里頭遺跡では宮殿の跡が見つかっており夏王朝の宮殿ではないかと言われている。また黄河中流にあった竜山文化が候補として有力視されており、中国では日本人の多くが邪馬台国の存在を素直に実在するものと受け入れているように、夏王朝を実在したものとする説が主流となっている。
しかし、中国国外では現時点においては実在性については慎重になるべきとする意見が主流である。
二里頭文化の遺跡群には殷と異なり同時代の文字資料が見つかっておらず、夏について具体的に記されるようになったのは史記などの後世の文献資料は夏から1500年も後のもので、そこに記される夏の勢力範囲は春秋戦国時代の中華圏と重なるものである一方、二里頭文化のものとされる遺跡は黄河宙域にとどまっている。
加えて、「夏」という言葉は前述の春秋戦国時代には「秩序・文化」あるいは中華圏そのものの意味を持つ言葉として盛んに用いられていた一方、殷周時代にはそのような用い方をされたものではなかった。こうした問題点から、「発掘された殷に先行する王朝」と「明らかに春秋戦国時代の世界観を元に語られている夏王朝」の関係性には決定的な証拠がないとする主張は根強く、中国の考古学会でも「夏王朝」ではなく「夏文化」という曖昧な語句を用いて言及する学者もいる。
慎重派の筆頭であるローター・フォン・ファルケンハウゼンは、考古学的発見を文献の記述に積極的に当てはめようとする中国学界の傾向を「中国考古学の文献史学指向」と批判している。