曖昧さ回避
- 漢字。「高く大きい」の意。
- 中国の姓。
- 中国の地名、王朝名。
- 周の諸侯国とされた古代の都市国家。現在の山西省南部にあった。晋に滅ぼされ、畢万が封じられて魏姓に改姓。
- 春秋戦国時代にあった国。魏氏が趙氏・韓氏と共に智氏を滅ぼし、晋を三分割して建国。これにより戦国時代が始まった。
- 三国時代に曹丕が建てた王朝(220年~265年)。「曹魏」とも。
- 五胡十六国時代に冉閔が建てた王朝(350年~352年)。「冉魏」とも。
- 五胡十六国時代に翟遼が建てた王朝(388年~392年)。「翟魏」とも。
- 南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏が建てた王朝「北魏」(384年~534年)。534年に「東魏」と「西魏」に分裂。
- 隋末に李密が建てた王朝(617年~618年)。李密がすぐ恭帝侗に帰順したため短命に終わった。
※pixivでは三国時代の曹魏のタグとしての使用が多い。
魏姓の人物
架空の人物
戦国七雄の魏
周の武王の弟である姫高は歴代の周の君主の遺体が埋葬された畢に封じられ、畢公(畢公高)となる。
畢公高の子孫の畢万の時代、畢氏は畢の地を奪われて衰退し、一族郎党を率いて晋国の曲沃を治めていた姫称に仕官し、姫称の子の姫詭諸付きの武官となる。
紀元前676年、姫詭諸が武公の跡を継ぎ献公となる。
紀元前661年、畢万は献公の車右に抜擢される。献公が魏を滅ぼし畢万が封じられる。畢万の子孫は魏氏を名乗る。
畢万の孫の魏犨は若い頃から公子重耳に仕え、重耳が亡命して各国を転々とする間も常に側に在った。
紀元前637年、重耳が帰国して晋公(文公)となる。
紀元前633年、三軍が創設され、魏犨は車右となり魏武子と諡された。
紀元前514年、晋は内紛状態となり、魏氏を含む6人の大夫が力を持ち六卿と呼ばれた。六卿は権力争いを繰り返し淘汰されてゆく。智氏・趙氏・魏氏・韓氏が生き残り、智氏が最も有力となる。
紀元前455年、魏駒は智瑶、韓虎と共に趙無恤のいる晋陽を包囲・水攻めする。
紀元前453年、趙無恤は魏駒と韓虎に使者を派遣し「私が滅ぼされた後は貴公らの番であろう」と調略したため、韓氏・趙氏・魏氏で智氏を滅ぼし、晋は三国に分かたれた。
紀元前445年、魏駒の子の魏斯(文侯)が即位。周辺諸国を討って七雄中の最強国となった。
紀元前403年、魏は周の威烈王により正式に諸侯と認められた。
紀元前340年、秦に大敗して黄河以西の地を失い、安邑から大梁(現在の開封)へ遷都。覇者の地位から陥落。
紀元前247年、戦国四君に挙げられる信陵君が五ヶ国連合軍を率いて秦軍を破ったが、兄の安釐王から「勝手に軍を動かした」と糾弾され、趙に亡命。魏へ帰国後も要職から遠ざけられた。
紀元前244年、信陵君が死去。以降、魏は秦に抵抗できず領土を削られる。
紀元前225年、王賁率いる秦軍が大梁を水攻めし、魏王假は降伏。魏は滅亡した。