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概要編集

とは、中国の三国時代に曹丕が建てた王朝。主に華北一帯を支配し、首都は洛陽。

また他に曹氏の王朝である為、「曹魏」「北魏」に対して「前魏」と呼称されることもある。


略史編集

後漢で実質的に権力を掌握し、華北での支配を確立した曹操

その曹操が死に、父の後を継ぎ魏王に即位した曹丕は、献帝から禅譲を受け即位する。これが「魏」帝国の建国である。しかし、曹丕は早世し曹叡が跡を継ぐ。

曹叡は魏を正統と認めない蜀漢の丞相である諸葛亮から度々北伐を受けるが撃退する。諸葛亮の病没もあり後憂を絶ったものの今度は遼東の楽浪郡や帯方郡を治めていた公孫淵が燕王を称し自立。曹叡は司馬懿を派遣して公孫淵を滅ぼす。

その後、曹叡も早世し曹芳が跡を継ぐ。しかし、曹芳が幼かったこともあり後見役となった大将軍曹爽の専横が始まり政治が乱れるようになる。曹爽は(表向きは閑居していた)太傅司馬懿を警戒し排除を企てるが、逆にクーデターを起こされ処刑されてしまう(正始の変)。

これ以降、司馬氏の権力は強まり司馬懿の死後は彼の長男の司馬師や次男の司馬昭が専権を振るい、曹芳は夏侯玄らの司馬師排除のクーデター未遂に関与したことで司馬師によって退位に追い込まれる。後を継いだ曹髦も「甘露門の変」であえない最後を遂げ、曹奐は完全に傀儡と化してしまった。

外征面において皇帝劉禅の体たらくなどで疲弊し衰退の一途を辿っていた蜀漢を滅ぼした。

その間にも、司馬昭は着々と権力基盤を固め晋王を称した。司馬昭の急逝で後を継いだ長男の司馬炎は魏からの禅譲を実行した。

これにより魏は滅び、西晋が建国された。


王朝の成立は西暦220年、終焉は265年である(45年間)。政権としては196年に曹操が後漢の実権を握った時に事実上、始まっているが、249年の司馬一族の政権掌握以降は傀儡となったため、政権として機能していたのは53年間ほど。そのうち王朝だった期間が29年間程であり、いずれにせよ、短命な王朝であった。皮肉にも、後継の西晋とその期間の長さは大して変わらない。王朝の崩壊の仕方があまりにも愚昧かつ悲惨であった西晋より遥かにマシであったことが救いであろうか。


主な所属人物編集

君主

  • 曹操(武帝)
  • 曹丕(文帝)  在位220年 - 226年
  • 曹叡(明帝)  在位226年 - 239年
  • 曹芳(斉王)  在位239年 - 254年
  • 曹髦(高貴郷公)在位254年 - 260年
  • 曹奐(常道郷公)在位260年 - 265年

※正確には、曹操が死んだ後に成立した王朝であるが、一般的認識としては含まれる


曹操四天王


曹一族


夏侯一族


五将軍


武官


曹魏五謀臣


文官


魏末期(北伐以降。西晋で活躍した者を除く)


女性

関連作品編集


関連タグ編集

歴史 創作三国志 夏侯一族

三国三国時代

(魏の臣下・司馬氏がクーデターを起こして建てた王朝)

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