概要
魏の有力者であった司馬懿の次男・司馬昭と、彼の正室である王元姫の長男。腕が地面に届くほど長かったという。
若くして「寛恵にして仁厚、沈深にして度量あり」と評され、九品中正制度に基づく卿品を決める際、出身地の河内郡では(両親が魏の有力者の子息子女だったこともあってか)比較の対象者がいないという程の貴公子だった。
司馬昭の死後、晋王となり父の路線を引き継いだ上で魏から禅譲を受け晋を建国。その後、三国の中で最後まで生き残っていた呉を滅ぼして、黄巾の乱以降、乱世が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。少なくとも、この頃までは皇帝としての仕事をきちんとこなしており、家臣の政争の仲裁や、各地への進軍命令、優秀な人材の登用などをきちんと進めていた。
しかし統一後は政治への興味を失ってしまい、のちの八王の乱の遠因を作ったという。人望がある実弟の司馬攸を冷遇し、暗愚として知られた息子の司馬衷を皇太子に据えた上、賈南風をその妃とするなど、後々の禍根に繋がったものは多い。
性格は鷹揚であったとされ、臣下がかなり厳しい諫言を口にしても、笑って流したとされる。ただし、その諫言を聞き入れて考えを改める事はなかったため、美点と言えるかは微妙である。
女色に耽ったことでも知られており、中国統一以前には詔勅をもって女子の婚姻を暫時禁止し、自分の後宮に入れるための女子を5000人選んだ。更に呉の皇帝であった孫皓の後宮の5000人も自らの後宮に入れた。1万人もの宮女を収容した広大な後宮を司馬炎は毎夜、羊に引かせた車に乗って回り、車の止まった所の女性のもとで一夜を共にしたという。その際、宮女たちは自分の所に皇帝を来させようと、自室の前に竹の葉を挿し、塩を盛った(羊が竹の葉を食べ、塩をなめるために止まるため)という。
この塩を盛るという故事が、日本の料理店などで盛り塩をするようになった起源とも言われている。
この頃、司馬一族に敵う武将は魏にも蜀にも呉にもいなかったとされ、物語化がされていることは殆どない。ただ、歴史の教科書などにはきちんと晋の建国者として載っている。
また、この時代は中華を統一した一方で、西涼や北方などの化外の地では、鮮卑や羌族などの異民族の反乱が相次ぐようになっており、のちの五胡十六国時代の萌芽が芽生えていた。
創作物では
本国中国のドラマ三国志(2010年)には彼の幼少期が登場し、その吹き替えは釘宮理恵だったりする。
BB戦士三国伝では司馬懿の息子(三男)として登場。演者はシャア専用ザクⅡ。幼子。闇の力に固執する父親に利用されるも、その末に闇の力も結局は人の思いが具現化した物である事を悟る。闇の力の討伐後は姜維(演者ガンダムF91)に養育されて成長、そして史実同様、最終的には真(晋)の皇帝となるところで物語は終わる。
「まず始めに、侠ありき…」