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概要編集

生没年:242年~283年

孫権の第三子・孫和の長男。つまり孫権の孫。生母は何姫。

字は元宗。幼名は彭祖。

呉の最後の皇帝で末帝とも言われる。


名前の表記は「孫晧」と「孫皓」の2通りがあり、web、書籍など媒体によりバラつきがある。

正史では「孫晧」、三国志演義では「孫皓」表記。

※「晧」は「皓」の異体字。


※以下の記述の一部はWikipediaの関連記事、ニコニコ大百科同名記事からの引用。



経歴編集

少年時代~即位まで編集

孫皓が生まれた頃、父・孫和は長兄・孫登の遺言もあり孫権から皇太子に立てられた。

しかし、異母姉の孫魯班により生母・王夫人らと共に「二宮の変」に巻き込まれ、赤烏十三年(250年)皇太子を廃され、南陽王として長沙においやられた挙句に自殺に追い込まれてしまう。

孫皓は異母弟たちと共に実母・何姫に育てられ、その後の宮廷の暗闘に関わることがなかったものの、廃太子孫和の庶長子である彼は無位無官の没落皇族として不遇の少年時代を送った。


第三代皇帝・孫休の即位後、父や祖母を陥れた魯班が失脚したこともあり、孫和の息子である孫皓たちは皇族として復権を果たす。

孫休により孫皓は烏程侯に封じられた。ちなみに烏程侯はかつて曾祖父の孫堅が漢王朝から封じられたものでもある。この時、烏程県令であった万彧と親交を結んでいる。また人相見に大出世するとも言われ秘かに大志を抱いていた模様である。


永安七年(264年)、皇帝孫休が30歳の若さで急死した。

孫休の子たちが幼かったことを懸念した濮陽興と張布らにより、次期皇帝候補として「孫策の再来」という評判が立っていた当時23歳の孫皓に白羽の矢が立ち即位。

皇族として復権を果たしてから6年目にして孫皓は帝位にまで昇った。


即位後の施政編集

貧しい人々に国庫を開ける、宮廷の鳥獣を逃がす、宮女を解任し国内の未婚男性に嫁がせるなど、最初のうちは善政を敷くが、ものの数か月後には悪政を敷き、些細なことでも残虐な刑を与える暴君に豹変し家臣や民衆を落胆させていった。


  • 宴席ではいつも皆を酔いつぶれるまで飲ませ、しらふの宦官達に酩酊時の失態や失言を記録させ、厳罰を与えた。
  • 後宮にはすでに数千人の女性がいたが、更に新しい宮女を入れ続けた。
  • 宮中に川(かなり流れが急だったらしい)を引き入れ、意に沿わぬ宮女をそこに突き落とし殺害した。
  • 人の顔の皮をはいだり、目を抉った。
  • 民衆を遷都(※)や宮殿の建設等の労役にかり出した。

また、注釈に引かれている「江表伝」等では張布の娘姉妹を後宮に入れた逸話など、さらにすさまじい暴虐振りや病的な行為が記されている。


(※)…狙いは荊州防衛の強化、あるいは荊州からの北伐の意図があったものとされる。しかし、これによって揚州の民衆は、貢納を長江のはるか上流の武昌にまで送らねばならず、負担が増え不満が高まった。結局、遷都は反乱と国内の疲弊を招いただけに終わり、その年12月に都は建業に戻された。


その後も孫皓は皇族、家臣、賢臣、果ては寵愛していた佞臣をも次々に追放・殺害していった。

特に佞臣・陳声は、城下で民衆から金品を巻き上げていた1人の男を処罰したのだが、なんとその男は孫皓の妾が遣わした者であったため、激怒した孫皓に赤々と熱した鋸で首を斬り落とされるという、理不尽且つ極めて残酷な刑を受けた。


孫皓時代の呉には反乱や疫病が相次いだが、中でも天紀三年(279年)に発生した郭馬の反乱は孫皓が広州の戸籍を調査しなおして課税を強化しようとしたことに対する反乱であり、この郭馬の反乱は直後の晋侵攻とも相まって呉滅亡の重要要因となってしまうのである。

また、孫皓時代の元号は異様に多いのも特徴であり頻繁に瑞兆が報告され、そのつど改元が行われた。孫皓治世16年のうち、改元は8回。大赦は12回も行われており異常に多い。


陸凱・陸抗の奮闘編集

臣下たちの相次ぐ処刑、粛清、離反。

その中で最後まで孫皓を諌め呉を支え続けたのが陸氏一門の陸凱と、陸遜の次男・陸抗であった。


孫皓に対して臆することなく諫言し続けたが、その内容は孫皓の方針とは真逆であり、両者は当然頻繁に衝突することとなる。そのため孫皓は以前から陸凱に不満を持っていたが、重臣である上に陸抗が健在である間は手が出せなかった。

陸凱が亡くなった5年後に陸抗が病死。陸凱の家族を交州へ追放し報復した。


陸凱が亡くなった翌270年、陸抗は病死した大司馬・朱績(朱然の子)の守備を継ぎ、本拠を楽郷に置いて、信陵・西陵・夷道・楽郷・公安の各軍を統括する任務に就いていた。

272年に歩闡が西陵城を手土産に晋へ寝返った時、陸抗はすぐに西陵城に急行。晋の名将羊祜らの援軍と対峙し、二転三転する攻防戦の末、遂に西陵を奪回し歩闡を斬った(西陵の戦い)。


その後陸抗は、晋の羊祜とは敵同士でありながら、互いに才能を認め合い篤い交わりを結んだ(羊陸之交)。


元より人一倍猜疑心の強い孫皓も、当然この状況を怪しむようになり、ついに陸抗を詰問した。

しかし陸抗はそれ以上咎められることもなく、やがて昇進して大司馬荊州牧に任じられるが翌鳳凰三年(274年)に死去。死の直前まで国を憂いており、存亡の危機に立たされている呉の厳しい現実を訴えた。


晋の侵攻・降伏編集

対呉の前線基地である益州では益州刺史王濬により呉討伐の大船団が建造されていた。建平郡太守・吾彦は、長江上流から流れてくる木屑を見て、晋の軍船建造を知り、孫皓に増援を要請した。

吾彦の求めにも、陸抗の上疏にも、孫皓は何の対応も打たなかった。あるいは打てなかったのだろうか?


279年(晋の咸寧五年、呉の天紀三年)の冬、は六路20万の軍勢を長江全域に展開し、呉に侵攻した。


晋軍の猛攻撃はもとより、暴政により愛国心を失っていた各軍兵士の士気の著しい低下による降伏や逃走も相まって晋軍は瞬く間に首都・建業へと迫った。

孫皓は薛瑩、胡沖の言を受け入れ降伏を決断。晋の各将軍に投降書簡を送った。家臣たちにも書簡を送り、呉滅亡の責任を一身に負い、家臣には晋に仕官し才能を発揮するようにと伝えている。

280年3月15日、建業に侵攻した王濬に対して、孫皓は自縛し棺を用意して(劉禅と同じ様式)降伏した。時に39歳。孫権の即位から51年だった。

洛陽にて編集

降伏後助命された孫皓は洛陽へ護送され、司馬炎から帰命侯に封じられた。


283年、42歳で逝去。

評価編集

かの紂王とかに例えられたりすることもある孫皓。当然ながら歴史書などでの評は手厳しい。

  • 『三国志』の著者・陳寿は二宮事件が呉の滅亡の遠因になったと評しているものの、孫皓を助命した司馬炎の対応も批判し降伏を受け入れず孫皓を腰斬に処し天下万民に詫びるべきだったと延べた。
  • 三国志に注を付けた裴松之はさらに辛辣で二宮事件が起こらなかったとしても孫皓が帝位に就くのだから呉は滅亡していると評した。
  • 陸抗の四男・陸機は『弁亡論』で孫皓の失政を手厳しく批判した。

暴虐の逸話には、亡国の君主ゆえの誇張もありそうだが、事実無根というわけでもないだろう。


だがこの孫皓、同じ暴君でも董卓とかと違い「無垢な病んだ暴君」という奇妙な印象を受ける人物でもある。


呉に最後まで忠義を尽くした吾彦からは英明だったと弁明されたが、それは司馬炎や賈充らとの機知に富むやり取りにも見受けられる。更には書に石碑に仏教にと様々な逸話を残している多芸な人物だったりする。もし父・孫和が廃嫡されることなく、順当に世継ぎとなれるような健全な環境であったなら、孫晧のこれほどまでに人の心を信じられない、病的な性格が形成されることはなかったのではないか。呉が滅亡しなかったかどうかはともかく、暴君と呼ばれるような存在にはならなかったのではないか、という声も見受けられる。


三国志演義編集

第113回で初登場(名前のみ)。

叔父・孫休の即位に伴い、彼によって烏程侯に封じられた。上記の通り、正史の記述がそのまま反映されている。


第120回(最終回)にて再登場。

家系、即位までの経緯、暴政、残虐な処刑、酒色にふけったこと等は正史とほぼ一致しているが、国防の要であった陸抗を羊祜との関係から晋との内通を疑い左遷してしまうというくだりが大きな違い(正史では詰問のみ)。

また、彼の人間性と政治的方針を造り上げたと言っても過言ではない「二宮の変」が演義では省かれているため、考察の余地がない単なる暴君として描かれている。

ちなみに、佞臣の1人であった文官の岑昏は宦官となっている。

降伏後、洛陽にて司馬炎に謁見した際、賈充から受けた質問に対する痛烈な返答を以って出番が終わる。

この返答は、三国志演義の登場人物における最後のセリフでもある。


多様な逸話編集


降伏直後編集

司馬炎の「朕はこの席を用意して、長いこと卿を待っていたぞ」という発言に対して「臣も南方で、席を用意して陛下をお待ちしておりました」と答えた。


また別の逸話として、賈充が孫皓に、「聞くところによれば、常々人の眼を抉ったり、顔の皮を剥いだりしたとか。これはいかなる刑か?」と尋ねたところ、賈充の顔をじっと眺めてから、「主を弑し、主に不忠を働く奴らへの見せしめですよ」と答えたという。昔、賈充は曹髦を殺した。そのため賈充は恥じいり黙ったが、孫皓の表情は何の変化もなかった。


もう一つ似たような逸話があり、「どうして人の顔の皮を剥いだのかね?」と、王済と対局していた司馬炎が尋ねると、王済が碁盤の下で足を投げ出して座っているのを見て、すかさず「主君に無礼を働く者があれば剥ぐのです」と答え、恥じ入った王済が足を引っ込めた、というもの。


またある時、司馬炎に「南の人は、お前(汝)という言葉を用いた詩を作るのが好きだというが、卿も作れるかね」と問われたところ、


昔与汝為隣(昔はお前と隣同士)

今与汝為臣(今ではお前の家来だよ)

上汝一杯酒(お前に一献進ぜよう)

今汝寿万春(お前の長寿を祝うため)


と詠ったので、司馬炎はしてやられたと後悔した。

この即席の詩は「爾汝歌」と呼ばれている。


書道編集

「孫皓は占いやお告げにすがり国政を乱した」ということはよく知られているが、孫皓がのめりこんだ「占いやお告げ」とは讖緯説(未来を予言する儒教の学説)のことである。

天璽元年(276年)、石の筋目に現れた字の形を天からのお告げとし、石に銘を刻んで建てたものが「天発神讖碑」である。


この天発神讖碑は、掘り込まれている書体の異形さで名が知れている。

後世の評価も

「篆書体でもなく、隷書体でもない。極めてまれなもの」

「奇怪の書」

「牛鬼蛇神」

「関わりすぎると心身に異常をきたす」

「孫皓の異常な心理の発露」


等々結構ひどい言われようである。しかし、反面この書風を取り入れた徐三庚のような書家もいる。このためか、能書家としても評されその分野では曹操に匹敵するという評もある。

南朝梁の書家だった庾肩吾は、自著の「書品」にて、様々な人物の書を評価しており、孫皓の書は九段階評価の上から五段階目「中中品」と評価された。同じ評価に、曹操杜預がいる。

ちなみに天発神讖碑は拓本が現存しており、呉時代の貴重な遺物となっている。


仏教編集

三国時代は、仏教が中国に本格的に伝えられ、仏典漢訳や寺院建立が始まった時期であり、孫皓にも「仏教を邪教とみなした孫皓が寺を破壊しようとしたとき、高僧康僧会を召しだし、善悪応報の仏教教義に関して討論した」というエピソードがある。


仏像編集

後宮の庭園の整備中、掘り出された金銅の仏像をトイレに持ち込み小便をひっかけ、臣下たちとゲラゲラ笑って楽しんだ、という。

非常に罰当たり且つおバカな行為で、当然というべきか、たちまち陰部に激痛が走り(「全身が腫れあがった」とも)、天にも届こうかというほどの絶叫をあげながら宮中をのたうち回ることになった。本当に何をやっているんだ…

孫皓はあちこちの廟で祈祷するが治る気配がなく、たまたま仏法を信仰していた侍女の助言と仏像の洗浄、そして孫皓本人の懺悔をもってようやく完治した。



登場メディア編集

演義に登場するものの、最終回はほとんどの三国志作品で省略されてしまうため、いまいち知名度の低い彼だが、意外にも多くの媒体に登場している。

イケメン、イケオジ、強面、デブ、凶暴、闇、強欲、傲慢、グータラ、賢明、など容姿や性格は様々。

以下順不同。

ゲーム編集

タイトルメーカー名前の表記
三國志シリーズコーエーテクモゲームス孫晧
三国志大戦セガ孫晧
蒼の三国志コロプラ孫皓
ごっつ三国Softnyx孫コウ
三国殺Yoka Games孫皓
大戦乱!!三国志バトルgloops孫晧

漫画編集

書籍名出版社名前の表記
学習まんが 世界の歴史⑤小学館孫皓
それからの三国志世界文化社孫皓
三国志完結編③メディアファクトリー孫皓
三国志に聞け!シリーズメディアファクトリー名言の誕生編では“孫皓”、戦争の知略編では“孫晧”表記
マンガでわかる 三国志池田書店孫皓
マンガ三国志[下]最後の死闘篇三笠書房孫皓
コミック版三国志 三 天下統一へポプラ社孫皓



演劇編集

作品名団体名前の表記
「Three Kingdoms~最終章~」激震・再生編Alexandrite Stage孫晧

余談編集

  • 幼名「彭祖」は曹奐(魏のラストエンペラー)の父・曹宇の字と同じ。
  • 同名の映画監督が存在する。

関連タグ編集

三国志 孫呉

  • 暴君…「董卓以上」と評されることもしばしば。
  • 孫権(祖父) 大虎(伯母) 二宮の変…孫皓がこんなんになった原因があるとすればこれ。
  • 陸抗 陸凱…末期の呉を支え続けた忠臣の代表。
  • 劉禅 曹奐…三国時代各国のラストエンペラー。

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