賈充
かじゅう
(217年〜282年)
司馬氏の腹心。西晋衰退・滅亡のきっかけである「八王の乱」を引き起こした賈南風の父。
魏の名将・賈逵の子。呉の陸遜に敗れた石亭の戦いの後で父が没した時、わずか12歳だったため苦労することになる。
成人してからは曹爽に仕えるが正始の変で司馬懿に免官されてしまう。
のち司馬師に仕え頭角を表し、
毌丘倹・文欽の反乱時、司馬師が急死した後の軍を監督し反乱鎮圧に功を挙げる。
その後、司馬昭の命令で諸葛誕の様子を窺うために使者に赴き、諸葛誕に叛意があることを司馬昭に報告する。
諸葛誕の乱の鎮定後、魏の皇帝曹髦が司馬氏から実権を取り戻そうと挙兵した際に、部下の成済に命じて曹髦を殺害。皇帝を殺したのは成済の独断ということにされ、成済は一族もろとも大罪人として処刑、賈充本人は何の罪にも問われなかった。
晋成立後、司馬炎にも仕える。同様に貢献した羊祜・荀勗・裴秀・王沈らとともに、功臣として賞賛され賈充の功績は筆頭に挙げられた。
官僚としての能力に長け、杜預らと共に晋の基本法制『泰始律令』編纂の中心人物となった。刑法である「律」と、行政法である「令」の二本立てにした法典は、はじめてであった。これは日本にも影響をもたらし、奈良時代の文武天皇(聖武天皇の父)の代に泰始律令を参考にした新令・新律(後世『大宝律令』と呼ばれる)が編纂された。
晋では要職である司空・尚書令等を歴任。侍中の任愷と対立し、涼州で反乱を起こした禿髪樹機能討伐を名目に外地に出されそうになるが、かえって任愷を追い落とすことに成功している。
呉征伐には執拗に反対したが、総指揮官を任され杜預達の快進撃もあり、結果的に成功した。
その後、政敵を排除したり、賄賂を駆使して晋での地位を揺るがないものとした。更に自身の娘・賈南后を皇太子の司馬衷の妃にすることにも成功し外戚としての地位をも得た。
魏の滅亡に加担し、皇帝殺しという大罪を犯しておきながら無罪放免。それどころか、晋の成立に貢献したとして政治の中心に関わり続けたなんとも恐ろしいヤツ。
だが因果はめぐるというべきか、彼の死後、その晋も娘(賈南后)が原因で短命のうちに滅亡の道を突き進み、賈氏も一族皆殺しの末路を辿った。
彼自身は天寿を全うしており、諡(おくりな)は「武公」(当初の諡は余りよろしくないものであったが、司馬炎の一言によって「武公」に変わったらしい)。
正史『晋書』賈充伝の日本語訳が、pixivにも投稿されているので、賈充を詳しく知りたい方は、是非とも一読をお勧めする。
賈充は成済に「あとから罪には問わない」と約束し、成済に皇帝曹髦を殺害させた。
しかしその後、司馬昭は皇帝殺害は自分の意志ではなく、成済の単独犯であるとして、成済の三族皆殺しを郭皇太后に上奏。
対して陳泰(陳羣の子)は賈充を皇帝殺害の罪で極刑にすべきと司馬昭に訴えたが、結局は実行犯の成済が全ての罪を被せられ処刑されることになり、賈充は何の罪にも問われなかった。
処刑されることになった成済は憤慨し抵抗。兄と共に屋根に上がって、約束を反故にした賈充や全ての罪を自分だけに被せた司馬昭の悪口雑言を大声で言い散らしたが、下から矢で射殺され、後に三族も皆殺しとなった。
しかし、賈充がこの事件の主犯という認識は魏(晋)どころか敵国だった呉でも持たれていたようである。
酒宴で任愷派の庾純に「高貴郷公(曹髦)はどこにいるのか」と非難され、呉最後の皇帝だった孫皓とのやりとりでも曹髦殺害の件を持ち出されやりこめられたことがあった。
賈充の先妻は李豊の娘である李婉である。李婉は父の李豊が夏侯玄(夏侯尚の子)や張緝(張既の子)らと司馬氏排除の陰謀を企てたことが発覚して一族皆殺しになった際、李婉も離縁されて(シャレではない)流罪となった。その後、晋建国直後に恩赦があり、李婉も許されたが、賈充は既に郭淮の姪である郭槐を後妻として結婚していた。
司馬炎は賈充にこの二人の夫人を正妻として置くことを許したが、李婉は賈充の家には戻ろうとしなかった。
賈充の功績に配慮して李婉を呼び戻し、二人の夫人を置くよう詔を下した。しかし、郭槐が賈充の胸ぐらを掴んで反対したため、賈充は怖くなり辞退した。さらに郭槐が李婉を亡き者にしようとしたが、賈充はそれを察すると郭槐を別居させようとした。賈南風が皇太子妃に立てられると、郭槐は娘と共に別居した。賈充は李婉に屋敷を用意し往来するようになったが、結局復縁は叶わなかった。
ある日、郭槐は賈充に、李婉がどんな女性か見に行きたいとねだった。賈充は「あれは強情で才気があるから行かないに越したことはない」と行ったが郭槐はそのまま出かけた。
しかし、豪奢な支度をした郭槐を迎えようと李婉が家から出てきた途端、郭槐はその姿を見るや足から力が抜けて跪き、再拝してしまった。帰ってこのことを賈充に話すと賈充は「だから言ったじゃないか」と答えたという。(『世説新語』より)
この一方で郭槐にはこんな話も伝えられている。ある日賈充が家に帰ってきた時、自分の息子・賈黎民を乳母が抱えていて、賈充が賈黎民をあやしていたのを賈充が乳母とデキていると思い、郭槐はその乳母を殺した。賈黎民は泣き止まず他人の乳を飲まずにとうとう死んでしまった。
賈充と郭槐にはもう一人の男子がいたが、同じように嫉妬心からその子の乳母を殺して結果的にその子を死に追いやったため、賈充が死んだ時に男子はいなかった。結局、郭槐は自身の次女・賈午(賈充の四女)の子である孫の韓謐を無理やり賈充の跡継ぎにして賈謐と改姓させ家を継がせた。その賈謐は伯母の賈南風(郭槐の長女)の威光を笠にした傲慢な振る舞いが多かった。「八王の乱」で賈南風が捕らえられて毒殺された際に賈謐も斬られた。
先妻の李婉との間に産まれていた賈充の娘(長女)の賈荃は司馬炎の実弟の司馬攸の妻となり、息子の司馬冏を産んだ。後に司馬冏は「八王の乱」に参戦。賈南風亡き後の政権の座をめぐって活動し、一時的に自らが実権を握るも権力に溺れ、政治を壟断し放蕩にふけったため衆人の失望を買った。最終的に自らも争乱に敗れて無惨な最期を迎えた。
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いいから、お前らとっとと話し合え。 2話
賈充の昔話りが思った以上に長くなってすみません。多分この賈充の昔話りは次回・もしくは次々回の始めくらいで終了出来るとは思います。ってか長ぇ~な、おい!!と、自分で自分を盛大にツッコミたくなりますが、「キセキ」を読んでいても、いなくても読む方に楽しんでもらえるべく少し話を厚めに書いています。 というより「キセキ」を読まれていない方がほとんどだと思ってるので、一応この話だけでもある程度分かってもらえるべく、あえて丁寧に書いておるのですよ。 けれどもし「キセキ」をお持ちの方はより「キセキ」を楽しんでもらえてもらえるようにしているつもりですので、どうかお許しを…… そして、以前自ツイートでこの話大体6話くらいになりそう。とか書いてましたが、始めの予定ではこの辺もっとサラッと書くつもりだったので、実は本来予定していた1話目の最後にも現時点で到達してないんですよ!!ハハハッ。(某ネズミーランドの子風の笑い) ですので最終予定話数はすでに私にも読めません。ごめんなさい!!ま、まあ「キセキ」自体が元々ぶ厚い話だし……ね!色々もう許して下さい。本当に…… 後子上以降の子、つまり司馬懿のお子ですが、この話は7正史ルートを元にこそしてますが、いわゆる俺設定なので、無双武将にはなっていませんが、あえて史実に沿って忠実に出させてもらいました。ただし存在そのもの以外は完全に俺設定ですので、どうぞご容赦下さい!! そんで無双だけしか三国志しらない人はご存知ないかもですが、実は司馬懿と春華さんの間に師と昭とエラク齢の離れた弟(昭とは軽く20以上離れているw)がいるのですが、この子はその内無双武将化しても不思議ではないため、この話の昭の年齢ならその弟が産まれていてもおかしくはないのですが、この弟だけはまだ産まれもしていないという、ちょっとややこしい設定になっております。 その辺も俺設定ということで大らかな心で読んで下さい!!15,991文字pixiv小説作品 晋伝ステージ「諸葛誕の乱」を全力で妄想してみた
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