概要
賈充の三女。後妻・郭槐の長女であり郭淮の大姪に当たる。妹に賈午。
八王の乱ひいては西晋滅亡の元凶の一人とされる。
賈充は西晋の創立に大きく貢献した事から、娘の賈南風は恵帝・司馬衷の妃となる事が出来た。暗愚だった恵帝は完全に彼女の言いなりであり、これによって徐々に権勢を振る様になり、恵帝の即位(290年)以降は政敵を次々と殺戮していく。
先ず、若手皇族の司馬瑋(恵帝・司馬衷の異母弟)等と組んで外戚の楊駿を始末。当時の長老の司馬亮(司馬懿の三男、恵帝・司馬衷の大叔父)と衛瓘が実権を握ると、二人に干された司馬瑋は激怒した。司馬瑋の部下の岐盛・公孫宏が、賈南風に「司馬亮・衛瓘が謀反を企んでいる」と讒言すると、賈南風はかねてより衛瓘に警戒されていた事から、これを利用して二人を排除しようと画策。恵帝・司馬衷に詔勅を出させて二人を解任するお墨付きを与えた。更に司馬瑋が二人を殺すと、用済みとなった司馬瑋を「他人を勝手に殺害した罪」で誅殺し、自身が事実上の最高権力者となった(291年)。この政争と殺戮から十数年間、断続的に皇族同士の争いが続く事になり、これを「八王の乱」という。
一方で、実務は張華・裴頠といった当代一流の政治家と、名門出の王戎、親族の賈模に分担させており、小康状態を作る事に成功してもいる。
また、賈南風は男子に恵まれなかった。その為、恵帝・司馬衷の皇太子は側室が産んだ司馬遹だった(司馬衷の父・司馬炎が暗愚として知られた司馬衷を後継としたのも、司馬衷の子だった司馬遹が聡明だった事が一因とされる)。しかし、その皇太子・司馬遹は権勢を振るう賈南風を嫌っていた為、彼女とは仲が悪かった。司馬遹が疎ましくなった賈南風は遂には彼を廃嫡させた上で殺してしまった(299~300年)。
この様に専横を極めた為、やがて各地の反発を買い、皇太子の復仇を大義名分に挙兵した司馬倫(司馬懿の九男、恵帝・司馬衷の大叔父)の軍によって捕らえられて処刑され、賈氏一族も皆殺しとなった(300年)。賈南風の死後も政治の混乱と殺戮、内乱は止む事は無く、西晋は瞬く間に滅亡への道を進んでいく事になった。
色黒で醜女であったとされる。また性格も大変に嫉妬深かったと言われ、自分を擁護してくれた女性(司馬炎の妃・楊芷)を何故か逆に恨んだり(軽く諫められた事が癪に障ったらしい。その後、実権を握ると楊駿を始め他の外戚諸共楊芷を処刑している)、妊娠していた恵帝・司馬衷の妃(側室)をお腹の子毎惨殺する等している。司馬衷の父・司馬炎すらも最初は結婚に反対していた程だった。
兵士に命じて街から美少年を攫っては自身に夜の相手をさせ、用が済めば殺害して遺体を捨てていたという強烈な逸話まで伝わる。
一応にも正当な王朝の関係者が記録の中でここまで悪く書かれており、且つ司馬炎も擁護出来ない人物だった事から、余程の悪女であったのだろう。
但し、賈南風の死後に本格化した八王の乱での西晋の自滅ぶりが余りに悲惨である為(賈南風を殺した司馬倫は自身の権力を固めようと、賈南風が実務を任せていた高官達も処刑してしまい、政治の混乱に更に歯止めが利かなくなった)後世には短期間とはいえ小康状態を築いた手腕を、相対的に再評価する意見もある。また、賈氏一族が滅ぼされた為、擁護する子孫がおらず、『晋書』では一方的に悪く描かれ過ぎているのでは?という擁護論もある。
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