概要
并州太原郡陽曲県の人。郭全の孫、郭縕の子、郭配(賈充・裴秀の舅)・郭鎮の兄、郭統の父、郭正の祖父。郭奕、郭槐の伯父。
建安年間(196年 - 220年)に孝廉で推挙され、平原の丞となった。
曹丕は五官将となると郭淮を召し出して門下賊曹に加えたが、間もなく曹操について漢中征伐に随行した。漢中制圧後は征西将軍夏侯淵の司馬としてその地に残り、ともに劉備に備えたが、劉備軍の侵攻の際は病気で参戦していなかった。219年の定軍山の戦いで夏侯淵が討たれると、軍は混乱したが、郭淮は混乱する兵士を取りまとめ、トウ寇将軍張郃に司令官を代行させ、翌日の劉備の侵攻も機略を用いて防いだ。曹操は漢中に到着すると大いに感心し、張郃に節を与え漢中駐留軍の司令官とし、郭淮をその司馬に任じた。
曹丕(文帝)が王位についたとき、郭淮は関内侯の爵位を与えられ、鎮西長史に転任した。このとき、征羌護軍も兼任し、左将軍張郃と冠軍将軍楊秋を監督した。周辺の賊を討伐し、関内を平和とし、民衆を安んじた。
文帝が帝位に就くと、祝賀に出向いたが、都へ向かう途上で病気にかかり、彼は都までの道のりと日数を計算した上で療養に努めた。ところが、彼が参内した頃には既に祝宴が行われていたことで、文帝は彼を咎めた。古の例を取って非難する文帝に対し、郭淮はそれを逆手にとって弁明した。そのためかえって文帝に気に入られ、仮の雍州刺史に任命された。その5年後、郭淮は正式な雍州刺史となった。何度も羌族らの反乱を鎮圧したため、降伏者がたびたび訪れてきたが、予め相手の親族関係などを調査し、心をつかんだ。
255年逝去。大将軍を追贈され、貞侯と諡された。郭統が跡を継いだ。郭淮の一族は、晋代にはそれぞれ高官に上ったという。
小説『三国志演義』では253年に姜維の放った矢によって落命しているが、これは創作である。