中国三国時代の魏の武将・政治家。蜀漢を滅ぼすのに功があったが現地で自立しようとして失敗し殺された。『三国志』魏書巻28「王毌丘諸葛鄧鍾伝」に王凌・毌丘倹・諸葛誕・鄧艾と並んで立伝されている。
プロフィール
生没:225年 - 264年
中国語での読み:チョン・ホェイ(Zhong Hui)
字:士季
父:鍾繇
母:張昌蒲
兄:鍾毓
出身地:潁川郡長社
概要
血筋
北宋中期の政治家である欧陽脩らが編纂した唐の正史である『新唐書』によると秦末期~楚漢戦争期における「西楚の覇王」項羽に仕えた名将・鍾離眜(ショウリバツ)の子孫とされる。『史記』「淮陰侯列伝」によると項羽の戦死後、鍾離眜は旧友だった楚王韓信に匿われた。ところがこれを知った劉邦の激怒を買い、陳平の策略で鍾離眜は自害に追い込まれたとされる(異説あり)。その後、鍾離眜の次男の鍾離接は潁川に移り、姓を「鍾離」から「鍾」に改めたとされており鍾会はこの系統とされる。一方で鍾離接から鍾会の父・鍾繇に至るまでの系図は『後漢書』と『三国志』で食い違うなどはっきりしていないこと、また『新唐書』自体も史料的な評価はさほど高くないことも留意されたし。ただし後漢末期においては鍾家が潁川郡における名族の一つだったことは紛れもない事実である。
余談になるが鍾離眜の長男・鍾離発は九江郡に移り、子孫からは後漢の光武帝劉秀や明帝劉荘に仕えた鍾離意やその七世子孫で孫権から孫皓までの呉四代に仕えた鍾離牧を輩出したとされる。
生涯
鍾会は曹操以来の魏の名臣・鍾繇が74歳の時の子として文帝曹丕が逝去する前年の225年に生まれた。
兄・鍾毓も父と同じく頭の回転の速さで知られたが鍾会はその兄以上に幼少時から評判が高く5歳にして蒋済から高く評価された。6歳だった230年に鍾繇が80歳にて逝去。母の張昌蒲からは幼時から英才教育を科され勉学に励んだ。その結果、15歳にして太学に入学しその後も勉学に励み、成人すると何晏らと共に「玄学」を創始した王弼と共に高い評判を得た。なお王弼と鍾会は親しかったが司馬懿が高平陵の変を起こした際、曹爽に連座し免職されのち24歳の若さで病死している。
曹芳の代から朝廷に出仕する。司馬懿が没し長男の司馬師が実権を握った頃から頭角を表し毌丘倹・文欽の乱鎮圧に功を立てた。司馬師没後は弟の司馬昭に引き続き仕え諸葛誕の乱鎮圧などに功を上げ、順調に出世する。
263年、鄧艾・諸葛緖と共に蜀漢征伐を遂行。蜀漢を滅亡させることには成功したものの、諸葛緖を陥れその軍を奪っている。しかし、自身が姜維によって剣閣で足止めを食らっている間に鄧艾が陰平経由で成都に到達し劉禅を降伏させ一番手柄を挙げたため鄧艾に対して敵意を抱くようになる。また、この年に鍾毓が病死したためその子の鍾峻・鍾辿を引き取る。
264年、姜維と組み手始めに鄧艾・鄧忠父子を逮捕し反乱を起こす。しかし配下の胡烈(胡遵の長男)の軍を胡烈の長男・胡淵が率いて造反。反対に胡父子の軍に攻められ姜維と共に討死した。
享年40歳。
生涯独身だったために子女はいない。
鍾会が養育していた甥の鍾峻・鍾辿は祖父と父の功績をもって恩赦され連座を免れた。
逸話
- 司馬昭からは張良に擬せられたほど非常に高い能力はあったが性格といい末路といい真逆である。
- 人望が無い。底なしに無い。しかも性格が非常に悪い逸話に事欠かない。
- 羊祜の叔母である辛憲英や王元姫に危険視されていたという話は、彼女たちの方の評価を上げている事で有名である。
- 鍾毓からも「鍾会は策謀に走りすぎて一貫した態度を取れない男だから、任務を彼一人に任せるのは宜しくない」と見られていた。
- マザコン。どれくらいかというと、母親の伝記を書いたぐらい(ただし、他の家族についての伝記も書かれていた可能性もないではない)。しかしその伝記の内容自体は、その母親をダシに自分自身を褒めたたえているような色合いが強く、とても母を慕っていたようには読みがたい。
表記について
"鐘会"と表記されることも多いが正しくは鍾会”である。
ちなみに『無双OROCHI2』の壁紙では漢字を間違えられ「鐘会」となっていた。
ただ、簡体字においては鍾と鐘は同じ字扱いされてしまっているため、本国ではあながち間違いとも言えなくなってしまった。
フィクションにおける鍾会
三國志シリーズ
作品にもよるが武力は並かやや高めであるが政治力・知力・統率力は非常に高い。しかし登場がかなり遅い。また黄皓と同じく義理は最低で野望はかなり高いタイプなので運用には注意する必要がある。
真・三國無双
鍾会(真・三國無双)を参照
関連タグ
同姓の関連キャラクター
- 鐘嵐珠(スクフェスALL_STARS) - 本人には一定の能力があるのに、人望がないという共通点がある。母親(虹ヶ咲学園理事長)との無視しがたい関連性まで共通している。