出世の糸口
并州河東郡聞喜県の出身で、曹操と曹丕の2代に仕えて武威太守として雍州・涼州の平定に活躍した後に、宮殿の造営を担当する将作大匠へと昇進した毌丘興の長男として生まれる。
弟に毌丘秀。息子は3人(毌丘甸、毌丘旬、毌丘宗)。父の死後、その爵位を次いで魏の朝廷に入り、曹叡の太子文学に就任。
226年に曹叡が皇帝に就任すると親しい間柄だった毌丘倹は尚書郎、続いて洛陽の典農となった。234年に諸葛亮が没して最大の危機が無くなった事で気が緩んだ曹叡が、農民を徴発して宮殿造りに勤しむようになると、彼は「宮殿を立派にしたとしても利益はあるのですか!?先に蜀と呉を倒す事が先決です!」(意訳)と諌めた。
曹叡の癇に障る様であれば命も危ういところであったが、元々親しい間柄であった為お咎めは無しでそれどころか荊州刺史に出世となった。
238年に遼東公孫家当主・公孫淵が反乱を起こすと彼は司馬懿の討伐軍に参加して勝利。翌年に曹叡が死去すると曹芳に次いで仕えた。更に244年には呉の調略をうけていた高句麗討伐を行い、高句麗王の位宮を撃破する事に成功した。
毋丘倹・文欽の乱
249年に司馬懿のクーデターで司馬一族が魏を掌握し、司馬懿の長男の司馬師が実権が握ると胡遵・王昶・諸葛誕・陳泰らと共に彼も都督に名をあげられる程になり、功績により左将軍に昇進した後に鎮南将軍・豫州刺史まで出世。
2年後の251年には孫権の死に乗じて攻めたてる事を上奏。攻め込むものの、先陣の諸葛誕が諸葛恪に大敗を喫した為に計画は失敗に終わった。
揚州刺史の文欽と共に呉への備えとして鎮東将軍に転じると揚州に駐屯し、諸葛恪が逆襲に転じた際は、文欽・司馬孚・張特と共にこれを防いで、撤退する諸葛恪を攻撃するなど活躍した。
だが、254年に衝撃の事件が起こる。それは曹芳が司馬一族にクーデターを企てたが、失敗に終わった。その結果、曹芳は皇帝の座は降ろされてしまった。そして曹髦が帝位に就くと粛清されるのでは無いかと考えた。そこで彼は同僚の文欽の一族を引き込み、更に弟や息子達の進言によって彗星が西北の空を覆ったのを瑞祥と捉え、司馬師を弾劾する皇太后の詔勅を偽造して反乱を起こした。
しかし多勢に無勢。敗れた毋丘倹は逃亡を図ろうとしたが、逃げ延びた矢先に県令の宋白に討たれた。息子達も司馬師に敗れて処刑されたが、毋丘倹の弟である毌丘秀と孫の毌丘重と毌丘奥の2人は呉への逃亡に成功し、孫2人は後に晋に仕える事となった。
真・三國無双シリーズ
「司馬師殿、理に従えば貴殿の所業は正しい だが俺は曹魏の将、帝に尽くすのが使命!」(6:毌丘倹・文欽の乱より)
6の晋ストーリーにて初登場。司馬一族の専横に怒り、文欽と共に反乱を起こす。無双ブラストにて無双武将として登場している。
なお7では彼と文欽のみ武器と声が違う固有のモブとして設定されている。7Empでは2人とも使用可能。(ちなみに初期バージョンでは覚醒乱舞を使おうとすると強制停止するので注意だったが、現在は度重なるアップデートの改善で安心して覚醒乱舞を使えるようになった。)