概要
204年或いは206年生まれ、239年没。字は「元仲」。
本来なら長子として後継者となる立場だったが、寵愛が薄れた甄姫が後宮の権力争いに敗れ、更には「曹丕への恨み言を口にした」という讒言により曹丕の勘気を被って殺されてしまう。そのため、彼は父に疎まれ、長らく皇太子になれなかった。そのため、この頃の曹叡を知るのは、司馬懿など極限られた人物であったという。
しかし、曹丕が急な病で重体に陥ると、学問に優れていた曹叡が皇太子に立てられる。そして父の死後、魏の第2代皇帝に即位する。即位後は真っ先に母の名誉回復を行い、結果、甄姫は文昭皇后という諡号を諡された。祖父曹操の頃より仕えていた司馬懿を重用し、最高職三公の一つである太尉に任じた。先帝曹丕とは違い、気に入らない人物や自分に諫言した人物であっても処刑するようなことは無かったという。また、侵攻してきた呉に対して親征を行ってこれを敗ったり、謀反を起こした公孫淵に対して周囲の反対を押し切って司馬懿の軍を差し向け、結果として反乱の早期鎮圧に成功したりと軍事面での功績も挙げられる。
このように聡明な仁君としての面を持っていたが、在位中に魏を何度も犯してきた諸葛亮が死んで蜀の北伐が一旦止み、それと関連して蜀の同盟国呉の侵攻も大人しくなると、気が緩んだのか乱行が目立つようになる。学者の馬鈞に命じてかつてより行っていた宮殿造営を本格化して国庫を傾けてしまう(ただし、これは皇帝権威の強化や農民に収入を与えるための公共事業という側面もあったという)。更に、人手不足の時には百官や公卿なども工事に動員し、それらを諌めた司徒(三公の一つ)董尋を庶民に落としてしまう。また、儒教離れした神仙思想にも凝りだし、漢の武帝が長寿のために長安に建てたという銅人を洛陽に運ばせた(その過程で多数の死者が出ている)。
この頃になると、自身が冷遇されていた時期からの夫人である毛皇后を遠ざけ、郭夫人を寵愛するようになる。そして、ついには「恨み言をもらした」として毛皇后に死を賜り、この事件に関わったとされた侍従数十人を殺害してしまう。皮肉にも父が母や自分に行ったことと同様の仕打ちをすることとなった。
毛皇后殺害の翌年、曹叡は毛皇后や侍従たちに襲われる夢を見てから急速に体調を崩す。曹叡の実子は相次いで逝去しており、一族の曹芳を養子として皇太子にたて、太尉の司馬懿と大将軍の曹爽を後見人にして死去。享年は34或いは36歳。
陳寿からの評価は以下の通り。
「冷静沈着にして剛胆、決断力と見識を併せ持ち、全てを自らの意志に従って行動した。君主たるに相応しい気概の持ち主であった。しかし、当時の人民は度重なる戦争で疲弊し、天下も三分されており、まずは先代の方針に従って、広大な版図の復興を成すべきであったのに、俄かに秦の始皇帝や漢の武帝の後を追うかのように宮殿の造営を行って、将来に対する計画とした。それは致命的な病というべきであった」
要約すると『優秀な君主らしい君主ではあったのだが、それ故に当時の世相と今一つ噛み合っていなかった』といったところだろうか。
又、後継者の選定について「私の情愛に囚われて幼子(曹芳)に皇位を伝え、一人の人物に後事を託さず、あくまで一族の者を参与させた。そのために(司馬懿との政争を起こして)曹爽は誅され、(最終的に)斉王(曹芳)は帝位を追われることになった」
とその拙さを批判している。
ちなみに、曹叡の行った大規模な宮殿造営は、後世、魏を滅ぼした晋によって、有効活用されることとなる。
真・三國無双シリーズ
武器:2、4:槍 5Emp:剣 6~7:刀 声:服巻浩司(2) 江川央生(4) 野島健児(5) 滝下毅(OROCHI、6~7) 金本涼輔(7Emp)
2から初登場。合肥新城包囲戦ステージで満寵と共に魏側の援軍として現れる。魏軍シナリオで味方として登場するとすぐに敗走して他の軍の士気を下げる事が多く、逆に呉軍シナリオで敵として登場すれば本陣が危なくなる事が多いという、どちらのシナリオでも厄介な存在であった。
4では勇将モブでありながら豪将モブの台詞が設定された特殊なモブであり「勝てそうですぜ!」や「俺がぶっ飛ばしてやる!」、果ては父親に対して「お前は天下無双だ!」(後者のセリフは無双オロチより。)など言葉遣いが荒々しく、これについては諸葛亮死後の彼(乱行が目立ち始めた頃)をイメージしているのではないかと言われている。
流石にマズかったのか5では打って変わり、武闘モブとなった。普通に父上など真面目な発言が多くなった。
6以降は君主モブの声となった。6EmpではDLCシナリオの228年の街亭の戦い、234年の秋風五丈原、237年の公孫淵の乱までの3シナリオでは君主となっている。スルーされた次代と5代目に比べればまだマシか。(249年の正治の変では何故か政権を簒奪した曹爽が君主となっている。)
余談
- 正史である魏書(魏志)では、卑弥呼が魏に使者を派遣した際の皇帝なのだが、この件と曹叡の没年に関しては、ややこしい問題が有り、卑弥呼の使者が来た時の皇帝は本当は誰なのかは諸説有る。
- 魏志倭人伝では卑弥呼が使者を派遣し、朝鮮半島に有った楽浪郡・帯方郡に来たのは景初2年6月とされている。
- ところが、当時、楽浪郡・帯方郡を支配していた公孫淵が倒されたのは景初2年8月。
- その為、日本では「魏志倭人伝の記述は景初3年6月の間違い」とする説が有る。
- だが、曹叡は正史である魏書(魏志)では景初3年1月1日に死亡しているとされている。
- 更にややこしい事に「魏が卑弥呼に下賜した鏡」とする説が有力な三角縁神獣鏡には「景初3年」の銘が有るものが多く、中には「景初4年」と云う存在しない年号が鋳造されているものまで有る。
- その為、日本の歴史学者の中には「景初は本当は4年まで続いていた」とする説を唱える者まで居る。