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曹芳

そうほう

曹芳とは、魏の第三代皇帝。(232~274年)。曹叡の養子。一説には「黄鬚児」曹彰の孫という。
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概説編集

の第三代皇帝。武帝曹操の孫で、任城威王・曹彰(海賊団は率いていない)の嫡子である済南王・曹楷の息子とされるが正確には不明。血統的に行けば武の才に優れた人物であったはずであるが、力量は不明である。

まあ状況的に見て、武人としての才覚だけでどうにかなる状態ではなかったのだが。


2代目皇帝・曹叡は子が相次いで夭折したために、従兄弟の子である曹芳と兄の秦王・曹詢を共に養子に迎えて、皇太子候補として養育していた(状況によっては魏を分裂させかねない危険行為である)。


239年に曹叡が死去すると僅か8歳で3代目皇帝に立てられる。しかしまだ幼年の身であった事により曹爽司馬懿の2人が補佐につき政務を取り仕切った。


243年に元服。翌年に政務を取り仕切っていた曹爽が興勢山に出兵を行うが敗北する。これ以後、曹爽一派が司馬懿を押しのけて専横を振るう。また同年には兄が14歳で急死している。誰の仕業にしても、陰謀である可能性が高いだろう。


246年には、毌丘倹らに命じて高句麗を討伐。翌年に半島を直轄地に変更。


249年に曹爽らと共に狩りに出かけるが、間もなくして司馬懿がクーデターを起こす。同時に

曹爽一派は全員粛清され、同時に魏は司馬一族の支配するところとなった。


251年には王凌(王允の甥)が曹操の17番目の子供である曹彪を擁してクーデターを図るが発覚。王凌は自刃し、曹彪は処刑された。同年、司馬懿が死去してその長子の司馬師が後を継ぐ。


254年に専横を振るう司馬師に激怒。夏侯玄(夏侯尚の子)、李豊、張緝(張既の子、張藐と張皇后の父)らと通じて司馬一族殲滅を図る。


しかし計画は失敗して夏侯玄、李豊、張緝らの一族は全員処刑された。この事件により司馬師は既に成人しているのに政務を看ずに、色欲に耽っているという理由で曹芳を皇帝の座から下して斉王に引き戻した。


265年に晋が成立すると、斉王から邵陵公に降格。その降格から9年後(274年)に、43歳で死去した。


創作編集

横山三国志では後半に登場する。

幼少時しか登場しないためか、「暗君」描写はない。


コーエー三國志シリーズ

11でのステータスは魅力以外が壊滅レベル。


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