概要
并州太原郡祁県の人。
祖先は春秋戦国時代に父・王翦と共に始皇帝に仕えて活躍した秦の将軍・王賁。
若い頃から「王佐の才」の持ち主と讃えられ、桓帝の代から朝廷に仕えていた。
黄巾の乱の後、朝廷を牛耳っていた十常侍ら宦官達が粛清され、董卓が政権を握ると、彼から司徒に選任され政務を執ることとなった。
だが、董卓が暴虐の限りを尽くすと、士孫瑞らと話し合い、董卓暗殺計画を練って実施の準備を始めた。その頃、董卓の養子で寵愛を受けていた呂布が、董卓の侍女と密通しており、この事がばれないかと恐れて不信感を抱いていた時に王允に相談したことで、王允は彼に暗殺計画のことを明かし、仲間に加えた。
そして、192年4月、董卓が宮殿に参内した際、暗殺を決行し呂布によって董卓は殺され、暗殺は成功する。
だが、その後に董卓派の粛清を行うが、その中には文人として名高い蔡邕も含まれ、董卓の死に嘆いたことで投獄されそのまま獄死してしまう。さらに、董卓の出身地である涼州出身の兵達に特赦するよう呂布達が提案するも、「年に二回特赦を出すことは慣行に背く」として拒否し追放を決定した。
王允自身の傲慢な態度や融通の利かなさが次第に呂布など暗殺に協力した者達との間が険悪になってしまう。
李傕・郭汜らの残党が降伏を願い出ても許さなかったが、李傕達は賈詡の進言を受けて、10万人の兵を率いて王允達がいる長安へ奇襲する。
王允は、こちら側に付いていた董卓の旧将の徐栄・胡軫・楊定に迎撃を命じるも、王允に不満を抱いていた胡軫と楊定が敵に寝返ってしまい、徐栄は戦死し、王允達は敗れてしまう。
呂布に長安からの撤退を誘ったが、王允は「幼い陛下(献帝)を残して一人助かることは出来ない」と誘いを拒否して長安に残る。そして、李傕達に長安を攻め込まれ、王允は李傕達に一族共々八つ裂きにされた。
甥の王淩は難を逃れ、のち曹操・曹丕・曹叡・曹芳の曹氏四代に仕え各地の刺史などを務め業績を挙げ、241年の芍陂の役では、呉の全琮の侵攻を迎撃し撃破した。しかし、甥の令狐愚と共に曹芳の廃位と楚王曹彪(曹操の十七男)の皇帝擁立を画策したが、251年に計画が露見。司馬懿に逮捕され都へ護送中に自殺した。その後、曹彪も自殺に追い込まれ王淩と令狐愚(249年に病死)の三族は皆殺しとなった(王淩の乱)。
フィクションにおける王允
三国志演義
正史で呂布が董卓の侍女と密通していた話を元に、養女に貂蝉という美しい女性がいる設定となっている。
董卓が政権を握った後、曹操が董卓暗殺を企てていることを知ると、彼に「七星宝刀」を渡して董卓を暗殺させようとした。しかし、曹操は直前で事が露見しそうになり、機転を利かせて董卓に献上したことでその場を凌いだ。
董卓の暴虐に嘆いたところに貂蝉が董卓と呂布の仲を裂く「連環の計」を提案し、貂蝉が二人の間を行き来して仲違いさせることに成功し、正史通りに董卓の暗殺に成功するが、李傕達に長安を攻め込まれる。演義ではもはやこれまでと投身自殺し、それを目撃した李傕達に亡骸を辱められた。