全琮
0
ぜんそう
全琮とは、三国時代の呉の武将。字は子璜(しこう)。
揚州呉郡銭唐県の人。妻は孫魯班(孫権の娘)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。
温厚恭順な性格とされており、謙虚で傲慢な態度がなかったという。
時期は不明だがある時、全琮は父の命令で桂陽から呉郡に米を運んで売却する任務を負ったが、全琮はその米を民達に施した。父は激怒したが、全琮は民達が苦しむのを見かねたためだと謝罪し、それを見た父は全琮の非凡さを認識して許した。その後、全琮は戦乱を避けて逃れて来た豪族達に、全琮は家財を傾けてまで援助した事から、全琮の名は広まったという。
全琮が頭角を現したのは、219年の関羽討伐(樊城の戦い)の時で、全琮は関羽討伐の計略を考案し、孫権に上疏した。だがこの時、すでに孫権は呂蒙と関羽討伐の計画を立てていたため、情報漏洩を恐れて上表を無視した。その後、関羽討伐後に開いた祝宴で、全琮は孫権から「今回の勝利は全琮の手柄でもある」と称えられた。
夷陵の戦い後に大軍を持って侵攻してきた魏軍を他の諸将達とともにこれを防いで撃破した。
また、石亭で魏の曹休を計略により誘き出し、これを打ち破った。
229年に、衛将軍・左護軍・徐州牧に任命されると、さらに孫権の娘であった孫魯班を妻として与えられ、孫権の娘婿になり、4人の息子を授かる。
呉の重臣となった全琮ことで一族は最盛期を誇るようになる。
孫和と孫覇による後継者争い(二宮の変)では、孫覇を支持していた。
249年に死去したとされる。
コメント
コメントが未記入です