人物
元来の姓は『施氏』だったが、13歳の時、母の実弟である朱治に当時子がなかったことから、孫策の仲立ちで朱家の養嗣子となる。
孫策は丹陽郡の役所に命じて羊の肉と酒をそなえ、朱然を召しださせ、呉に到着後は厚く礼遇した。
219年の関羽討伐戦では呂蒙に従い、潘璋とともに別働隊を率いて臨沮に赴き、関羽を生け捕りにするという大功を立てている。
呂蒙が危篤となったとき、呂蒙から「決断力・実行力ともに十二分」として後継に推薦された。
このあたり非常に勘違いされやすいのだが、呂蒙が自身の後任に認めたのは陸遜ではなく朱然である。
その後孫権の差配により陸遜が呂蒙の後任に任じられ、朱然は江陵の守備を任されるようになる。
その後223年には魏の曹丕の三方面侵攻では江陵の防衛にあたり、魏の将軍の曹真・夏侯尚・張郃・徐晃らと対決する。
張郃の奮戦により呉の援軍の孫盛が敗れ、江陵は二重三重に包囲され孤立無援となり、さらに流行病によって城内の兵は激減し、戦える兵力は五千ほどであった。
しかし朱然は兵を励まし、隙を窺い敵陣二つを破った。包囲は半年に及び、呉軍からは内通者も出たが、朱然は内通者の存在をつきとめ死刑にした。
結局、魏軍は城をおとせず撤退した。この攻防戦によって朱然の名は魏にまで鳴り響き、当陽侯に改封された。
その後も呉の功臣として孫権を支え続け、曹休を撃破した石亭の戦い、諸葛亮の北伐と呼応した234年の合肥新城攻めなどに従軍。241年の芍陂の役においては別動隊を率い樊城を攻め司馬懿と対決した。陸遜の死後は事実上の軍のトップになる。しかし、この頃から体調は悪化し長らく寝込むことになり孫権から手厚い看護を受けている。それでも248年に江陵に城壁を築いたりしている(「呉主伝」)が、249年に病死した。
孫権は喪服をつけ心をこめて哭礼をおこなった。子の施績が跡を継いだ。施績は孫亮の時代に朱姓に戻り朱績となり最終的には大司馬まで累進し270年に没している。
また、「演義」では趙雲の活躍場所を増やす目的なのか、夷陵の戦いで、劉備に迫った所を趙雲に打ち取られるという一発屋扱いを受けている(ただし、吉川三国志や横山三国志ではその描写は無い)。
余談
1984年6月に安徽省馬鞍山市雨山郷の紡績工場の建設予定地で朱然の墓が発見された。
ここでは最古の名刺など歴史的に非常に貴重な副葬品が多数発掘されている。
これらは呉の文化を知る上で貴重な発見とされている。
1986年、朱然の墓は省の重点文物保護単位に認定され、「朱然路」という道路が引かれるなど、周辺は保護整備されている。
創作物での扱い
真・三國無双シリーズ
朱然(真・三國無双)を参照