生年:183年
没年:245年
概要
正史においては、「呉の四姓(ごのしせい)」といわれる有力豪族の一つである陸家の出。後世の戦いぶりや、孫権への忠誠心から、陸一族は呉の忠臣という印象があるが、実は当初、陸一族は、孫一族とはむしろ敵対関係にあった。
早くに父を失い、廬江郡の太守であった陸康(陸遜から見ると、祖父の兄弟に当たる)の下に身を寄せる。しかし、陸康は袁術の命を受けた孫策の攻撃を受けた。その際に陸康は陸遜の又従兄弟・陸績を陸遜に預け、年少の陸績に代わり一族の長とした。
そして、陸遜率いる陸家は呉郡へ逃れたが、陸康は孫策に討たれる。その後呉郡が独立した孫策の所領となった。陸遜は孫策の弟の孫権が幕府を開いたときに初めて仕えた。この10年後、異民族である山越の討伐に活躍、孫権は陸遜を特に重視していた。孫権は孫策の娘を妻として与えた(この妻は顧邵の未亡人である可能性が高い)。
荊州の関羽を攻める際に呂蒙に献策している。へりくだった書状を送って関羽を油断させ、呂蒙の荊州攻略を支援した。この功績により陸遜は右護軍・鎮西将軍・婁侯となった。
221年、劉備が大軍を率いて国境に攻めよせてくると、孫権は彼を大都督に任じた。222年、荊州を取り戻すために侵攻してきた劉備軍の伏兵を見破り、さらに火攻めなどで攻撃し、劉備軍を壊滅させ、劉備を白帝城に敗走させた(夷陵の戦い)。この功績により、陸遜は輔国将軍・荊州牧・江陵侯となった。
陸遜は孫権に施策を上言し、寛容な政治を勧めるとともに卑しい者達の売名目的の言葉に耳を貸さないよう願った。一方、孫権は陸遜の言葉に逐一反論をしており、その報答は「刑罰が重いのはやむを得ない措置だ。また、そういった者の意見にも見るべき点が無いわけではないので一概に否定はできない。しかし、私には人を見る目があるから問題ない」と自信満々に言いきった(フラグと言ってはならない)。ただし「孤と君とは義を分つこと他とは異なり、戚族としての繁栄を同じくしてきた」と配慮の言葉も残している。
周魴が偽りの降伏を魏に申し出て、10万の兵を率いる曹休を石亭に誘い出した。孫権は陸遜のように鞭をもて馬車を操る事を許し、百司は膝を屈し、陸遜に黄金の鉞を与え、大都督に任命し、曹休を追討させた。陸遜は朱桓・全琮らを用いて曹休を大破した(石亭の戦い)。陸遜は当時の呉の首都である武昌に凱旋した。この頃には陸遜は皇族と同等の扱いになっていたようだ。
孫権が皇帝に即位するのに伴い、上大将軍・右都護の官を授かる。孫権は首都を再び建業に戻し、武昌には太子孫登や皇子達を置き、尚書の役所もそのままにした。太子の後見役のため陸遜を武昌に召し寄せ、荊州と揚州の三郡の統治、それに軍事と国事の監督を委任した。そして244年、丞相となるが、孫権の老耄が起こした孫和と孫覇の後継者争いに巻き込まれ、孫権からの問責に激怒するも、抗議する機もなく病没した(二宮の変)。この後、息子の陸抗が父の潔白を主張し、孫権は涙を流して謝罪した。
三国志演義
三国志演義においては、夷陵の戦いのときに闞沢が陸遜を推薦した際に登場したが、正史とは違い、無名の新人扱いであった。その為、陸遜の起用に張昭らが反対している。また夷陵の戦いにおいては、劉備軍の撃破後、追撃したが諸葛亮の石兵八陣の罠に命を落としそうになったところ、諸葛亮の舅・黄承彦の助けで脱出できたが、結果的に追撃を諦めることになっている。
エピソード
夷陵の戦いの際に、敵軍に包囲された孫桓という武将がいた。普通ならば救援を出すところが、「あの人は優秀だから大丈夫ですよ」と、一切援軍を出さなかった。かくして、彼の読み通りに数ヶ月かけて包囲を抜けて帰ってきた孫桓は一言。「死ぬかと思いましたが、策は当たったんですから何も申し上げますまい」
民間伝承においては川を氾濫させていた黄龍と戦い、脳天に剣を突き刺して追い払ったと言う。黄龍は四神の長と言われる強大な霊獣である為、彼が逃げ去ったから良かったものの、最悪返り討ちにあって死んでいた可能性もありうるのである。しかしながら陸遜が勇敢さが現れているエピソードとも取れる。
人物
智謀に優れ、実直で国家に忠実であった。
一族の多くを孫家に殺されているにもかかわらず、記録からは孫家への恨み様子は見られない。
孫呉が発行する、蜀との外交文書はすべて陸遜が審査したうえで発行された。そのため諸葛亮とは交信があったようである。
独善的な諸葛恪を諫めることもあった。
評価
正史においては、三国の主君を除いて諸葛亮と陸遜のみが一巻をもって単独で伝を立てられるというかなりの特別扱いを受けている。
蜀の出である陳寿から見れば、陸遜は故国の英雄である関羽を滅亡に追いやった原因であるが、陳寿は陸遜を特に恨みには思わなかったのか、非常に高く評価している。彼の計略の巧みさと忠誠心は、「立派に社稷の臣と呼びえる」と表現している。
一方で裴松之の評価は厳しく、陸遜が自ら命じて行わせた石陽急襲により住民が多く被害を受け件に関して、「無辜の民衆を酷い目に合わせた」「孫の代で一族が絶えたのは、この悪行の為であろうか」とまで言っている(ただし、裴松之の時代にあっては既に関羽の神格化がはじまっていた頃であり、その影響を受けている可能性も否定できない)。
周瑜・呂蒙・魯粛らと共に「宮中に入って腹心となり、地方へ出ては股肱となり」と評されている。
唐の史館が選んだ中国の64人の名将の1人に選ばれている。
周瑜・魯粛・呂蒙らは演義やそれを元にした創作において酷い扱いになっていることが多いが、陸遜は劉備を窮地に追いやった人物であるにもかかわらず、演義でもあまり悪くは描かれてない。
容姿
演義においては、陸遜の容貌について「身長八尺、面如美玉」と述べてあり、後の創作物における陸遜の美男子像はこれに由来する形となる。
初登場である夷陵の戦いではいかにも若手といった感じで登場しているのだが、実はこの時点で歴史的には40歳くらいである。横山版の陸遜は他のメディアと異なり丸顔のおっさんなのだが、残念ながら実は一番実像に近いのかもしれない……。
周瑜が美青年であれば陸遜は美少年といった形で孫呉のイケメン枠を分担することが多い。
関連作品
『真・三國無双』シリーズ
→陸遜(真・三國無双)を参照。
若く、品行方正、知略と俊敏さを持つ青年である。
三國志シリーズ (光栄)
ほぼ全ての能力値が高く設定されており、曹操・周瑜・司馬懿らに匹敵するスペックを持つ。
アニメ映画三国志(シナノ企画)
若き天才司令官として登場。
関羽を油断させるために頼りない青年を演じていた。
横山三国志
おっさんの姿で登場。「適当にやってればよろしい」のセリフが有名。
『三国伝』シリーズ(ガンダム)
→陸遜ゼータプラスを参照。
『恋姫†無双』シリーズ
→穏を参照。
『鋼鉄三国志』
主人公である。陸遜伯言。
MTG(ポータル三国志)
「智謀の将軍 陸遜」として収録。青の4マナで1/3。馬術持ち。対戦相手に攻撃が通るとカードを1枚引くことができる。
関連イラスト
左上:陸遜ゼータプラス 右上:穏
真ん中左:陸遜伯言 真ん中右:陸遜(真・三國無双)
下:陸遜(三国志パズル大戦)
関連タグ
作品タグ