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プロフィール編集

生没年:156年~236年

字は子布。徐州彭城国出身。

子:張承張休


概要編集

徐州彭城国の人。若い頃から学問に励み、智謀に長けていた。

董卓の専横などで世が乱れると、その混乱を避けて江南に移住する。陶謙に招かれたこともあったが、断ったために投獄されたこともあった。のち孫策が揚州で挙兵したとき、張紘とともにその参謀として招かれた。孫策は張昭を得たことを喜び、張昭の家に赴いて母親に挨拶するなど、家族同然の付き合いをするほど信任は厚く、政治・軍事の一切の裁断を任せていた。

孫策が許貢の残党の襲撃で致命傷を負った際、弟の孫権に「内政のことは張昭に相談せよ」と命じ、張昭には「もし仲謀が仕事に当る能力がないようならば、あなた自身が政権を執ってほしい」と補佐を頼んで息を引き取った。また、孫策・孫権の母が亡くなる間際に、張昭に「我が子の仲謀をよろしく頼みます」と委託された。


その後も、張昭は二人の遺言通りにの重臣として孫権を補佐し続けたことで、孫権に「張公」と呼ばれ信頼された(ちなみに張紘は役職から「張東部」と呼ばれた)。だが、張昭の厳格な態度から次第に仲が険悪となっていき、最長老格ながら丞相にはなれなかった。また、赤壁の戦いの時に降伏を唱えたことをあげつらわれたり、斬り殺されそうになったり、家の門に火を点けられたりしたが、最終的には和解している。

236年に81歳で死去する。


息子の張承や張休も呉の重臣として活躍した。しかし、張休は二宮の変のゴタゴタで自害させられる。張承の子・張震諸葛恪孫亮孫峻たちに暗殺され孫和が自死させられた時に連座(母が諸葛恪の妹)し処刑されている。さらに孫和の正妻だった妹(もしくは姉)も同じく連座し自死を命じられ、張家は完全に没落しその後表舞台に出ることはなかった。


三国志演義編集

三国志演義でも呉の重臣筆頭の扱いをされる。登場当初は張紘と共に「江東の二張」と呼ばれる在野の賢人で、それを知った孫策は自ら赴いて仕官を懇願する。最初は断っていたが、何度も説得されたことでついに折れて仕官を承諾する。

赤壁の戦いでは、呉の未来を考えて降伏派筆頭となっており、魯粛に招かれた諸葛亮と降伏派達とともに論戦に挑むが、論破されている。

樊城の戦いで関羽が討った後、張昭は孫権にこのままだと劉備が敵討ちで攻め込んで来ると警告し、それを避けるために関羽の首を曹操の元へ送って矛先をに向けさせるべきと提言した。


三国志派生作品編集


文官であるためか、バトル主体の作品ではあまり出番がないようだ。


児童文学「呉書・三国志」

幼若の孫権の成長を描く3巻に於いて、その孫権の先生格として重要な役割に在る。


反三国志

敵国の文官を酷評する流れをモロに被っている。

建業陥落に際して降伏を主張して武将達の非難轟々を浴び、結局再起を期して旅立った孫亮についていかず自分だけ降伏したら徐庶に不忠として突っぱねられ、後はもう首を吊るしかなかった。


関連タグ編集

三国志 孫呉

孫策 孫権 張紘

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