概要
幼い頃から並外れた智謀を持っていた。
関税を撤廃したり無駄な役人の削減など、政治改革に精力的に務めた。
また大将軍として東興の戦いで魏の大軍を破って名声を得たが、後に周囲を諫めを無視して強引に合肥新城を攻めた結果大敗する。諸葛恪は敗戦の責任を取ることなく独断専行を続けたため孫峻らによって謀殺された。享年51歳とされる。
人物
陳寿は諸葛恪を「諸葛恪は才気にあふれ、大きな展望をもって働く事ができ、国内の人々の賞賛を受けていたが、驕慢で狭量であった」と評している。その通り気宇壮大で有能であった彼は、破滅する直前まで多くの功を挙げ、特に呉長年の悲願であり懸念事項であった南方の異民族討伐と開拓の成功は目覚ましいものがあった。
しかし、宴席で酔った孫権が驢馬の額に「諸葛子瑜」と書いて戯れたのをとっさに「諸葛子瑜之驢(諸葛瑾の驢馬)」と一文字加えて皆を感心させた幼少期のエピソードがよく知られるように、たとえ君主や年長者といった気遣うべき相手にもやられっぱなしではいられない、短気で負けん気の強い性格が顕著であった。こうした性格は幼少期から危惧されており、父は「家を大きくするのも、潰すのもこの子だ」と嘆息し、叔父や陸遜からも欠点を直すよう指摘を受けていた。
孫権から後事を託された際にも、国家の最長老として「呂侯」と敬愛されていた呂岱から「難しい時局だから、どのようなことでも10回は考えてから行動に移すべきだ」と諭された諸葛恪は、「孔子ですら2回と十分であるというのに10回とは、私を馬鹿にしているのですか!」と激しく返した。呂岱は上手く返せず、人々は諸葛恪の才気と活力を讃え、呂岱は失言をしたと看做した。
しかし、2年後に諸葛恪が破滅をすると、人々は打って変わって「あれは前兆だったのだ」と噂しあった。
晋の歴史家・虞喜は「諸葛恪は薪売りのような者の意見にも慎重に耳を傾けるべき重い立場にありながら、己の弁舌の才能に酔いしれ他人の忠言を無視した」と評価している。