概要
生没年:175年-210年。後漢末期の武将。中国語ではチョウ・ユィ(Zhou Yu)と呼ぶ。字は公瑾。揚州廬江郡の人で、知勇を備え若くして立派な風采を整えていたこと、さらに名門出身でもあったので「イケメンな周家の若様」を意味する周郎もしくは美周郎と呼ばれていた。また音楽に精通しており、酔っぱらって居たときでもその間違いを聞き逃さなかったと言われている。
生涯
若き王佐の才
孫堅に仕え、孫堅の嫡子・孫策と義兄弟の約を結ぶ(断金の交わり)。孫堅が劉表との戦いで戦死して孫氏軍閥が解散した後は雌伏していたと思われる。孫策が袁術から借兵し立ち上がった際に合流。以降、孫策の江東制覇に貢献した。孫策が不慮の死を遂げた後、弟の孫権にもよく仕えたが最大の試練を迎える。
赤壁の戦い
208年、袁尚を滅ぼし河北を制し、劉琮を降し劉備を追い荊州も制圧した曹操は80万(ただし実質30万とも)と呼号する大軍を以て南下を開始、孫権に対し共に劉琦・劉備を討つことを持ちかける。
これは実質降伏勧告であり張昭など呉の重臣たちは孫権に投降を進言するが、周瑜と一部の武将たちは断固決戦を主張。魯粛や彼が連れてきた劉備の臣・諸葛亮とともに孫権を説得する。
戦いが始まると周瑜は、わずか3万の軍勢を率いて火攻めをもって、赤壁で曹操軍の船団を焼きつくし壊滅させた。この戦いでの逆転劇がなければ、曹操は中国を統一できていたかもしれないといわれている。
荊州争奪と最期
戦後、孫権は江陵に目をつける。曹仁の守りは堅かったが、周瑜は甘寧を夷陵に進撃させ、曹仁と徐晃の部隊を分断した。曹仁が夷陵に軍を送り包囲すると、呂蒙の計略を採用し、凌統だけを守備に残して軍のほとんどを甘寧の救援に引き連れ、曹仁の包囲を打ち破り甘寧を救援した。この時、曹仁は万余人の兵を失った(「甘寧伝」)。
そのまま長江の北岸に陣を据えて江陵攻撃を続行したが、この時の正面決戦の末に、周瑜は流れ矢を受けて重傷を負った。周瑜は重傷のまま戦に臨み、曹仁の攻撃を退け、ついに江陵から曹仁を撤退させた。周瑜は偏将軍に任命され、南郡太守の職務にあたった。さらに奉邑として下雋・漢昌・劉陽・州陵を与えられ、江陵に軍を駐屯させた。
劉備は左将軍・荊州牧として、江陵の近隣の油江口改め公安に幕府を置いていた。劉備が孫権と会談するため、呉の京城に赴いていたとき、周瑜は孫権に上疏し、劉備を篭絡して劉備と関羽・張飛を分断し、両将を自ら率いると献策したが、孫権は今は曹操に対抗するため、一人でも多くの英雄が必要な時期と考え、また劉備を篭絡させることはできないだろうと判断し、周瑜の提案は却下された。
周瑜は、曹操が赤壁での疲弊から軍事行動を起こせないと判断した。その間に劉璋の支配が動揺していた益州を占領し、益州は孫瑜(孫静の次男。孫皎の兄。)に任せた上で、馬超や韓遂ら関中の諸将と同盟を結び、自らは襄陽から曹操を攻めるという計画を立て、孫権の元に出向き、その同意を取り付け遠征の準備を行った。しかし210年、以前の戦傷が悪化し病を得て巴丘にて急逝。享年36歳(満35歳)。
周瑜の死は孫権を大いに嘆かせた。孫権は建業に戻ってくる周瑜の柩を蕪湖まで出迎え、葬儀の費用の一切を負担した。また、後に命令を出し、仮に周瑜と程普が勝手に奴隷を保有していたとしても、一切問題にしてはならないと言ったという。
彼の死により遠征計画も白紙に戻された。周瑜の後は魯粛が継ぎ、以降は荊州に構える劉備との共存方針が採られることになった。
人物
- 知略・武略に優れており、その才能は曹操や劉備からも恐れられるほどであった。実際に曹操は蒋幹を使者として周瑜の引き抜きを図り、劉備は孫権に虚言を述べて、孫権と周瑜を離間させようとしたようだが、いずれも失敗に終わっている。
- 寛大な性格で人心を掴むことが得意だった。だが宿将の程普とだけは折り合いが悪く、程普は若輩の周瑜を度々侮辱していた。しかし周瑜はあくまで膝を屈して謙り続けたので、その謙譲さに程普も遂に感服し、周瑜を尊重するようになった。
- 陳寿は「曹公(=曹操)は丞相という地位を利し、天子を手元に置き、その威をかりて群雄達の掃討につとめていたが、荊州の城を落とすや、その勢いを借りて東夏(=呉)の地に鉾先を向けてきた。このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、人々に抜きん出た存在を示したというのは、真に非凡な才能によるのである」と評している。
正史だけの記述をみれば、美男子、文武両道、品行方正、絶対音感持ちで更に家柄も良いという完璧人間といっても過言ではないくらいの多彩な才能の持ち主。
血縁・家族
玄祖父:周栄
曾祖父:周興
父:周異
長男:周循
次男:周胤
長女:周姫
妻:小喬
三国志演義・京劇
小説『三国志演義』や吉川『三国志』や横山三国志でも似たような扱いになっている。孫策の挙兵にかけつけ江東制覇に協力し、孫策の死後も孫権に仕え張昭と並ぶ重臣となった。
赤壁の戦いでは主戦派の重鎮として登場するが、このあたりから劉備の使者として呉に滞在していた諸葛亮に、その出会いのときから翻弄され続ける損な役回りを負わされる羽目になってしまう。
そして自らの策を全て見透かす諸葛亮を危険視し暗殺を試みるが尽く失敗し、
遂に病に倒れた際には孔明の挑発的な書状を読み「私がいながら、なぜ天は諸葛亮をも生んだのだ!(既生瑜、何生亮)」と血を吐いて憤死するという最期に…
言っておくが実力その物は『演義』でも赤壁の大火が物語る通り抜群のものがある。魯迅なども「歪曲し過ぎだ」と批判していたように、いかんせん孔明推しが強すぎたのだ…。
『蒼天航路』では諸葛亮に挑発的な発破を掛けられたり賈詡の「離間の計」に振り回されたりなどしたが、それ以上に格好いいシーンも多く演義などよりはかなりマシな扱いになっている。
京劇では、「美周郎」というあだ名の通り古来から二枚目が演じる役とされており、眉目秀麗な英雄としてのイメージが定着している。
他の創作物における周瑜
個別記事有り
- 『真・三國無双』のキャラクター。→周瑜(真・三國無双)
- 『一騎当千』のキャラクター。→周瑜公瑾
- 『恋姫†無双』のキャラクター。「冥琳」の項を参照。
- 『三国恋戦記』のキャラクター。「公瑾」の項を参照。
- 『SDガンダム三国伝』のキャラクター。→周瑜ヒャクシキ
- 『Fate/SamuraiRemnant』のキャラクター。→アーチャー(Fate/SamuraiRemnant)
三国志大戦
初代から参戦。呉の主要武将だけあって全体強化やダメージ計略など多くのカードが出されている。
その中でも代表的なものはシリーズを通して2コスト弓武力6知力9(「3」のみ10)伏兵魅力というスペックで全カードの中でもトップレベルの威力を持つダメージ計略である「赤壁の大火」持ちのものだろう。
SDガンダムワールド 三国創傑伝
演者はアカツキ。
レッドクリフ
演:トニー・レオン
主人公だけあって輝かしい活躍をする。音楽の才能に長ける風流人である一方、戦場では自ら出陣し敵将をなぎ倒すなど勇猛な人物。諸葛亮に振り回されるという要素もなく、終始冷静で優れた司令官である。
アニメ映画 三国志
映画第2部「長江燃ゆ!」にて登場。CVは屋良有作。
概ね演義の周瑜像をベースに描いているが、増して小物臭漂う悪役になっている。
提督としては優秀であるものの、諸葛亮に振り回され続ける。
赤壁の戦いの後には劉備が荊州をどさくさに紛れて領有しようとする事を憂い、荊州城に侵攻するものの、劉備軍の待ち伏せに遭い、(史実では親友であるはずの)龐統 を含め周囲の全兵士から嘲笑され、単独で劉備と諸葛亮に斬りかかろうとするも階段を上る最中に吐血し、何とか城壁の上までたどり着くが憤激の余り昏倒して血を吐き、城壁から転落死する結末を迎える。
映画のトリを飾る立ち位置とは言え、演義以上に哀れな扱いとなっている。
MTG
ポータル三国志に「呉の大都督 周瑜」として登場。青の7マナで8/8という強大なスペックを持つが、対戦相手が島をコントロールしていないと攻撃に参加できない。
三国志世界にリヴァイアサンや海蛇、クラーケンといった大型クリーチャーを出せないため、代わり呉の船団がそのポジションを務めることになったと思われるのだが、その結果、登場から20年以上が経った現在でもレベルアップする者を除けば多元宇宙最強の人間である。
英傑大戦
稼働開始時から参戦。計略は三国志大戦と同じ「赤壁の大火」。
コストが2.5に上がり、それに伴って武力8知力11とスペックも上がっているが特技は伏兵だけである。
反三国志
孫権というより孫策(彼の代の呉はまだ劉備の敵ではなかった)の臣下であることに加え、諸葛亮がかませ犬持ちでは体裁が悪い事から、かませ犬を脱させて貰えている。
諸葛亮に無駄な敵意を抱かない(だから見せ場を奪われる事もなかった)ばかりか、死ぬ間際に「劉備とケンカするな」と言い残す。これが伏線となり、呉滅亡後も周瑜の子弟は生き延びた。
ただしその所為で死因が「昼は深酒をしながら多くの者達と語らい、夜は愛人と性交に至るという、自身の不健康な生活」という変な所で割を食ったような事態になっているあたり、やはり反三国志であった。