馬超
ばちょう
蜀の劉備に仕えた武将。中国語ではマー・チャオ(Ma Chao)と呼ぶ。
長安に近い右扶風茂陵県の出身。
羌族の血を引いており、西方の異民族たちからの人望が厚かった。
後漢の名将・馬援の子孫。
周大荒の小説『反三国志』では馬雲騄という妹が登場するが、これは小説オリジナルの架空の人物であり、史実にも演義にも登場しない。
妻は楊氏、側室に董氏がいる。
青年時代
剛力の持ち主で若い頃から勇名をはせた。
馬超は鍾繇の要請を受け部下の龐徳と共に兵を率い、郭援・高幹・呼廚泉を討伐することとなった。鍾繇・龐徳と共に郭援と戦い、足に矢を受け負傷したが、その足を袋に包んで尚も戦い続け戦に勝利する(汾水の戦い)。
建安13年(208年)、韓遂と不仲となった馬騰が都に上り、馬超は涼州に残って父の軍勢を引き継ぎ、偏将軍・都亭侯に任命された。
打倒曹操
建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵らに命じて漢中の張魯を討伐しようとした。
馬超や韓遂、関中の諸将らはこの動きを見て曹操を警戒するようになる。
馬超は遠征から戻った韓遂に「鍾繇は私に韓遂殿を捕まえるよう命じました。彼らは信用できません」と言い、曹操に子を人質として差し出している韓遂が煮え切らない態度でいると、「自分は父を棄てて韓遂殿を父とするので、韓遂殿も子を棄てて自分を子と思って欲しい」と述べて反乱を持ちかけた。
なお馬超が関中軍閥連合軍の盟主となった理由には、馬超が羌族の血を引くクォーターで異民族からの指示が得られる事と三輔・涼州方面で影響力や人気がある存在だったために反乱の頭として担がれたとする説、隴西で生まれ育った馬騰が老後を中央で過ごそうとした点が不審であるとして馬超の挙兵に馬騰たちが呼応する計画があったのではないかとする説がある。
馬超は時の朝廷の権臣・曹操と敵対し、韓遂らあわせて十部隊らと共に兵を挙げ、
十万の軍勢を率いて黄河、潼水の地に布陣した。
曹操もまた夏侯淵・曹仁らを率いて馬超らと対峙した(潼関の戦い)。
最初こそ破竹の勢いで曹操軍を上回り、曹操をあと一歩のところまで追いつめるが、
次第と戦況は膠着し、曹操の参謀・賈詡の〈離間の計〉によって韓遂と決裂し大敗。
この結果、馬騰、馬休、馬鉄らを含む一族200人あまりが曹操に処刑されることとなった。
敗北と再起を重ねて
建安17年(212年)馬超は羌族の兵を集めて隴上で再び蜂起し、郡や県のほとんどが馬超に呼応した。馬超が冀県に軍を進めると涼州刺史の韋康は冀城に立て籠り戦う姿勢をとるが、篭城の末、助命を条件に馬超に降伏する。しかし8ヶ月もの長期にわたり敵対姿勢をとり続けた韋康を馬超が信頼するはずはなく、約束を破り援軍に来ていた張魯の将軍楊昂に斬らせた。この時、馬超は韋康の部下である趙昂らに関しては処分をせず、その代わりに息子の趙月を人質としている。
韋康の旧臣楊阜は馬超を恨み、復讐の機会を窺っていた。楊阜は歴城にいる姜叙に反旗を促し、趙昂もこれに同調した。趙昂の妻・王異は、馬超の妻・楊氏と親しくするフリをして馬超が趙昂らを信頼するように謀り、馬超が気を許した所を狙い212年鹵城で楊阜と姜叙らが挙兵した。
涼州の多くの城を得ていた馬超だったが、趙昂らと同様の志を持つ州内の尹奉、梁寛、趙衢らの抵抗により冀城は奪還される。この時楊阜らの鎮圧に向かった馬超の隙をついて趙昂・王異は尹奉らと共に城門を封鎖、これで馬超は帰城が叶わなくなった。楊阜は報復として冀城にいた妻・楊氏を含む馬超の一族をすべて捕らえ、処刑した。
この時、姜叙の母は馬超を『父に背いた親不孝者のうえ、殿(韋康)を殺した逆賊だ。天も地もどうしてお前を許すことがあろうか。自分の罪を恥じて死にもせず、よく平気で人に顔向けできるものだ。」と罵倒した。
馬超は姜叙の母と子を殺した後、趙昂・王異夫妻が立て籠もる祁山を包囲したものの敵の援軍が到来したため、攻略を諦め人質としていた二人の息子趙月を斬った。さらに馬超は楊阜と戦い、重傷を負わせ、その一族を斬ったが、援軍にかけつけた夏侯淵に敗れた。
その後、馬超は漢中の張魯を頼り、張魯に兵を借り失地回復を試みるが、再び趙昂・王異夫婦に阻まれ三十日後には援軍の張郃が到着したことで包囲は失敗した。 涼州奪還が成らなかった馬超はやがて張魯配下の楊白にも「家族を愛せない者」と批判され、劉備のもとへ出奔することとなる。漢中にいた子の馬秋は張魯が曹操に降伏したあと殺されている。
劉備への帰順
劉備軍が劉璋を包囲したと聞き、降伏を申し入れた劉備に密書を送った。「西涼の馬超」が彼を恐れた劉璋に降ったと聞くと戦意を喪失。一戦も交える事なく城門を開いた。
馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた。
彭羕は、その野心を警戒した諸葛亮が劉備に密告した為に、左遷されることとなった。彭羕は左遷される前に馬超を訪問すると、劉備を批判した後、「君が外で兵を挙げ、私が内を取り持てば、天下は思いのままである」と馬超に反乱を持ちかけた。流浪の末に帰順した馬超は、自分の身を危惧していたのでこの言葉を受け入れず、彭羕が帰るとその言葉を上表したため、彭羕は処刑された。
建安22年(217年)、馬超は劉備の漢中攻略戦に従軍し、下弁方面での作戦に張飛・呉蘭・雷銅らと共に参加したが、曹洪・曹休らに阻まれ、目立った戦果をあげることなく撤退した。
建安24年(219年)、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある。馬超は左将軍・仮節に任命された。
章武元年(221年)には驃騎将軍・涼州刺史になるが、翌年、47歳で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。
没する間際、馬超は「臣の一門宗族二百人余りはあらかた誅殺され、ただ従弟の馬岱だけが残りました。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承させてください。深く陛下にお託しいたし、もう申し上げることはございません」と劉備に上疏している。
三国志演義においては、蜀の五虎大将軍の1人として数えられ、単なる猛将というだけでなく容姿端麗な為に「西涼の錦馬超」の異名を持ち、「顔の色冠の白玉の如く、眼は流れる星の如く、唇は紅をさしたようで虎の如き体躯猿の如き臂、腹は彪の如く腰は狼の如き」と形容されている。
基本は正史通りの活躍をしているが、曹操に対する挙兵のタイミングが異なる。
演義では、曹操暗殺計画に加担していた馬騰を、曹操が一族と共におびき寄せ、謀殺される。それを受け馬騰の義兄弟だった韓遂と共に復讐戦を挑む事になっている。
張魯の傘下として葭萠関の戦いに臨んだ際、張飛と一騎打ちを行い激しく打ち合う。
その堂々たる姿を見て劉備は「錦馬超とはよく言ったものだ」と感嘆した。その後、李恢の説得に応じて劉備陣営に加わる。
演義では馬超の死については描かれていないが、史実と異なり劉備の死より後の孟獲討伐戦後に亡くなっている。
馬超に関しては賛否両論ある。その並外れた驍勇ぶりは評価されているものの、彼の振舞い方には批判が多い。
曹操に部下の楊阜が、「馬超は韓信・英布のような武勇を持ち、羌族に心服されているので、警戒を怠ってはなりませぬ、一方、父に背を向け君主に叛き、涼州の将を虐殺したと批判された。」と進言し、曹操ももっともだと答えたとされる。
孫盛は、馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した極端な残酷さであり、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている。
『季漢輔臣賛』では、離反と連合を繰り返し、一族を滅ぼし軍勢を失い、道に背き徳に反したが、劉備に身を託したと評されている。
自尊心の強かった関羽は、馬超が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で問うたが、関羽の性格を知っていた諸葛亮が「馬超は張飛に比肩するが、関羽には及ばない」と述べたので喜んだという。なお、諸葛亮は黄忠を後将軍に任命しようとした劉備に対して「黄忠の名望は関羽や馬超と並ぶものではありません」と、関羽と併せて言及している。
陳寿は、馬超が武勇を恃んで一族を破滅させたことは残念であるものの、窮地から抜け出て安泰に至ることができたのだから、まだましではないだろうかと評している(部下に裏切られて身を滅ぼした関羽や張飛との対比だと思われる)。
「家族を顧みない者」
馬超は羌族の血を引くだけでなく、他の涼州の豪族たちと同様、羌族の価値観や風習に強く影響されていたとみられる。古代の羌族は匈奴のような騎馬民族に近い文化を持ち、強い者に従う風習があり、農耕民族である漢民族に浸透する「親を第1に敬え」という儒教的な価値観に乏しかったようである。そのため涼州は「学が無い地方」と蔑まれており、また涼州の中でも漢人と羌族との武力衝突がしばしば発生した。中には董卓や李傕らのように涼州の社会に溶け込んだ群雄もいるが、彼らも「蛮族の風習に染まっている」と当時非難されていた。
馬超が楊阜や孫盛らから「家族を顧みない者」として批判されている背景には、漢人社会にそぐわない価値観および羌族の血を引く馬超に関して、存在そのものへの憎悪があったとみられる。
少年時代、韓遂の部下の閻行と一騎打ちとなり、負傷して殺されそうになったことがある。
劉備は馬超の来降を聞くと、「私は益州を手に入れたぞ」と言って喜んだ。
『山陽公載記』では、馬超が劉備の字を呼び捨て(目上には官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは完全に無礼)、関羽と張飛に斬り殺されそうになったという一文があるが、裴松之は、関羽は当時荊州の守りについており益州に行った事は無い。よって馬超と関羽が共に劉備の傍にいた事実は考えられないとして、この記述の信憑性を強く否定しており「単純に考えても、いくら馬超でもそれはない」と擁護している。
羅城県青明山に伝わる話では、221年陽平関を守っていた馬超の病が悪化すると諸葛亮は馬超のために薬酒を造ったと言われている。しかし馬超の肺病が完治しないと知っていた諸葛亮は「これから百年先も付き添って欲しい」と嘆願し馬超もこれを快く受け入れ、勉県定軍山に諸葛亮の武候墓を、その近くに自分の墓も修建したとされる。
現在陕西省勉県定軍山にある武候墓の川を挟んだ反対側に武候祠(諸葛亮を祀った廟)があり、このほど近くに馬超墓がある。武候祠は中国国内に多数存在するが勉県の武候祠が中国最古のものとされている。また馬超墓から100Mという近距離に諸葛亮の墓碑がひとつある。
中国の拳法に『西涼掌(曦陽掌太平拳)』というものがあり、発祥は涼州とされている。起源には3つの説があり、その一つが蜀漢の名将である馬超によって創られたというものである。馬超が考案し趙雲に伝授したと言われている。
基本的には、武力はかなり強く設定されているが、劉備軍に加わるのが遅いため他の五虎大将軍たちと比べて見せ場が少ない傾向にある。
『蒼天航路』
国家権力や威信といった概念に対して非常に崇高かつ潔癖な理想を抱いており、一度腐敗し穢れたそれらは完全に破壊して一から作り直さなければならないと考えている。
そのため漢帝国も復興ではなく滅ぼすべき対象と見なしており、それが漢の天子を奉戴し続ける曹操への反乱の動機となっている。
漢を滅ぼすか、自身が理想に殉じて玉砕するかという二極思考で戦い続けるものの、度重なる敗北で多くの同志を失い、自分だけが生き延びる事を繰り返した結果、次第に自分自身が理想から遠い中途半端な存在と化していく矛盾に苦しめられる事になる。
『反三国志』
前述を翻す大活躍を与えられた実質主人公。
オリキャラの妹・馬雲騄の夫となる趙雲と共に蜀漢最大の槍働き(関羽や張飛は本国の防衛に専念している)、韓遂とも離間に嵌る事なく添い遂げ、馬騰・馬休・馬鉄も唯では殺られず一矢報いるなど大いに底上げされている。
- 曹操が連敗の心労で病死と相成った際、劉備や法正らが狂喜乱舞する中で彼だけは自分の手で討ってやれなかったと歯噛みし、後に洛陽を攻め落とした際伍子胥に倣って曹操の死体に罰を与えようとするも、(史実通り)別人が葬られた偽墓しかなかったためそれらを無銘の一般人として葬り直し諦めた。曹操を“そうされるだけの悪い奴”にしつつ実行に至らなかった事で劉備軍の品格は保たれるという、作者の政治力が窺われる巧い展開といえよう。
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