概要
生没年:?〜219年
字は季玉。
前漢の魯恭王であった劉余の末裔である益州牧・劉焉の四男。『三国志』巻31「劉二牧伝」に父と共に伝を立てられている。
生涯
中原から遠く離れ、実質独立勢力となっていた南西の益州(いまの四川省辺り)の地で生まれる。
李傕が権力を振るっていた頃、長兄・劉範、次兄・劉誕と共に長安で献帝に仕えていた。後に献帝の使者として父の元に派遣された時、益州に留められた。
やがて劉焉・劉範は馬騰(馬超の父)と手を組び、長安を襲撃する計画を立てていたが、計画が洩れ長安を攻撃した馬騰の軍も敗北。劉範と劉誕も李傕に殺された。
上の息子二人を最悪の形で失った劉焉は失意の内に194年に亡くなってしまう。
兄たちと違い惰弱で、あまり評判の良い人物ではなかったが、実力者・趙韙の後押しもあり、三兄・劉瑁を差し置き父の後継者となったとされる。
しかし、劉焉に仕えていた道教集団「五斗米道」の教主・張魯が漢中で独立。
さらに、益州では劉焉の代から『東州兵(長安周辺の争乱や悪政から逃れてきた者達)』を軍の中核としてきていたが、その東州兵による民衆への狼藉や、益州土着の豪族との摩擦が悪化。おまけにそれに乗じて趙韙が謀反を起こすなど、非常に前途多難な統治となる。
趙韙は東州兵によって撃退され、反乱は鎮めたものの、張魯とは冷戦状態となる。
曹操が益州と隣接する荊州を制圧すると、劉璋は使者を派遣して曹操に敬意を表し、振威将軍の将軍位を得る。当初は曹操との連携を模索していたが、使者が曹操に冷遇され、さらには赤壁の戦い以後、荊州での曹操勢力も減退したため、立ち消えとなった。
その後、劉璋の下では出世が覚束ないと考え、これを見限っていた家臣の張松・法正・孟達らの画策により、張魯や曹操に対抗すべく荊州の劉備を蜀に迎え行れる。この時、王累・黄権・劉巴らに反対されているが、聞きいれていない。案の定、劉備は劉璋が期待するような軍事行動は起こさず、張松の劉備への内通行為が露見したことで両者は衝突。1年以上の抗争の末、劉備の家臣・簡雍の説得を受けて遂に降伏。黄権や劉巴たち旧臣たちも劉備政権に参画。以降、彼の治めていた蜀の地は、『蜀漢』として整備されていくこととなる。
その後は劉備に仕えることとなり長男・劉循を成都に残し、次男の劉闡と共に荊州の西部にある公安に移る。関羽が呂蒙に討たれて荊州が孫権の勢力下となると、劉闡と共に孫権に帰順。益州牧に任じられるも、間も無く死去した。
ちなみに劉循は父と弟が呉に降伏したものの、劉備に許され蜀に仕え続けたという。
人物
優柔不断で暗愚であったとされ、『三国志』の著者・陳寿は、「劉璋は英雄としての才に乏しく、土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えない」と厳しい評価をしている。
一方でそれなりの領土的野心はあった模様で劉表が治める荊州への侵攻計画もあったとされる。また、領民思いでもあり、部下の鄭度による劉備軍への焦土作戦の進言を退けたり(三国志内ではこの判断はむしろ批判されている)、まだ抵抗するつもりであった官民を抑え、降伏している。
フィクションでの劉璋
吉川三国志
非常にお人好しの性格とされており、『もし庶民であったならば、たとえ騙されて全財産を失おうと、善良な人物として慕われていただろう』といった評価を受けている。劉備にも『真実のある人』と評されている。しかしその一方で、乱世の君主としての素質は致命的に欠けている。
劉備をあっさり信用したり、蜀の半分という条件を出したりと愚直。諸葛亮にも悪政を行っていると評されていたが、同時に領民思いな側面も見せていた。後に蜀獲りを目指す劉備と敵対。漢中の馬超が劉備に降り、援軍の望みが絶たれたため、遂に降伏する。
コーエーの歴史シミュレーションゲームシリーズ『三國志』では、後に劉備の拠点となる蜀の地を治めていたため、登場頻度は高い。しかし、暗君というイメージゆえ、能力値は極めて低く設定されている。ただし、『領民思い』という点が考慮されてか、『魅力』のステータスは他に比べるとかなりマシに設定されている(それでも低いが)。
臣下に対しても敬語口調で、恰幅が良くやたらと豊かな唇を持つ、印象の強い外見となっている。
益州を乱世から守りきる力はなく、『惰弱』、『暗愚』と評され、家臣から裏切られる点は同様。しかし、謀主であった張松の挙動にいち早く異変を感じたり、劉備・張飛・趙雲・馬超・諸葛亮らに居城を包囲されて怯える家臣たちを前に、一人毅然とした態度での抵抗を示すなど、決して単純な暗君ではない側面が強い。家臣が次々と離反していく中、己の素質に絶望するが、簡雍の説得を通して国と民のあるべき形を悟り、遂には降伏を決意する。
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主な配下