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※ここでの表記は「呉懿」と統一する。


概要編集

兗州陳留郡の人。先祖は後漢の光武帝劉秀の功臣で雲台二十八将(第二位)の呉漢。従父は何進の忠臣だった呉匡、呉匡の子の呉班は族弟。妹は呉氏(穆皇后)。子の名前は不明、孫は成漢李雄と30年にも渡って戦い続けた呉喬


少年時代に父を失ったが、かつて父と旧交のあった劉焉を頼って一族と共に益州に移住した。妹の呉氏を劉焉の三男の劉瑁の妻に娶せている。劉焉の亡き後は四男の劉璋に仕えて中郎将に任じられた。なお、劉瑁は弟に仕える立場になったが赤壁の戦い前頃に病死している。


212年に劉璋の要請で漢中張魯を防いでいた荊州劉備が劉璋と決裂して、成都へ向けて進攻を開始すると防御にあたったが、防ぐことができずに降伏した。214年に劉備が益州を平定すると護軍・討逆将軍に任じられた。先述の呉氏を劉備の夫人とした。

221年、劉備が蜀漢の皇帝に即位した時には偏将軍・関中都督となっている。

劉備亡き後、228年の街亭の戦いの際には、諸将は先鋒に経験豊富な呉懿や魏延を推挙したが、丞相の諸葛亮は聴き容れずに馬謖を任用して大敗を喫した。

230年、魏延と共に羌中に進出し、費曜を撃破して左将軍に昇進し高陽郷侯(兗州陳留郡)に封じられた。

231年の李厳が罷免された時点では左将軍・荊州刺史・高陽郷侯であった。

234年、諸葛亮が五丈原で陣没し漢中太守の魏延もその後のゴタゴタで討たれたため、督漢中・車騎将軍・仮節・雍州刺史となり済陽県侯(兗州陳留郡)に封じられ魏延の後任として漢中に駐屯した。237年に死去し漢中太守になっていた副将の王平がその職務を引き継いだ。

三国志』では個人の伝は無く諡も与えられていない。


フィクションにおける呉懿編集

劉備が蜀に侵攻した時、雒城を守る張任達の救援に劉璋の長男・劉循と副将の雷銅呉蘭とともに駆け付ける。善戦していたが、趙雲に捕らえられてしまい、説得を受けて降伏する。その後は先に投降した厳顔とともに劉備の軍を先導し、益州の調略を行なうことになる。のち諸葛亮の北伐にも従軍した。吉川三国志や横山三国志でも同様。蒼天航路では劉備の漢中侵攻前の閲兵式で名前のみ登場。


一貫してバランスの取れた良将。


名前について編集

史書では名前を西晋初代皇帝・司馬炎の祖父で諸葛亮の北伐で対峙した魏将・司馬懿と同じ「懿」の諱を避けて名前を「呉壱(ご いつ)」とされたと言われていた。しかし、最近では存命中に呉壱または「呉壹」に改名したと言われている。


関連タグ編集

三国志 蜀漢

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