概要
178年 - 213年もしくは、179年 - 214年
中国後漢末期の武将、政治家。蜀の建国者の劉備に仕えた。字は士元(しげん)。
道号は鳳雛、謚は靖侯。「臥龍(がりゅう)」「伏龍(ふくりゅう)」と呼ばれた諸葛亮に対して、「鳳雛(ほうすう)」と称せられた。
若い頃は口下手であまり身なりが冴えなかったことから評判を得なかったが、人物鑑定で有名な龐徳公と司馬徽に、その才能を認められたことでようやく名が高まった。後に郡に仕えて功曹となり、孫権軍の周瑜が南郡太守を領した後に病死すると、その遺骸を送り届ける役目を担っている。
呉の陸績・全琮・顧邵らとは懇意であり、龐統は陸績を「駿馬」、顧邵を「足が遅いが力のある牛」、全琮を汝南の樊子昭に例えて褒め称えた。龐統が周瑜の遺体を呉に送り届けた帰りは、彼らが見送りにやってきており、陸績と顧邵から別れの際に「天下が太平になったら、また四海の士を批評しましょう」と言われるなど、深い交流があった。
龐統の性格は人物評価を好んで行なったが、その場合はいつもその人物を過大に評価していた。ある人にその理由を尋ねられた際、龐統は「現在天下は乱れ、正道は衰え、善人は少なく悪人は多い。褒め過ぎるくらいの評価をして、名誉欲を満たしてやらなければ、善事を行なう者は増えないだろう。志ある者に希望を与え、努力させられるのだから、これもいいではないか」と答えている。
その後、荊州を領有した劉備の下に転じ、耒陽(現在の湖南省耒陽市)の県令の職を任ぜられるものの、仕事を滞らせたために罷免された。これを聞いた魯粛は劉備への手紙の中で「龐統は大役を与えてこその人物」と薦め、諸葛亮も取り成したので再び劉備に召し抱えられ、諸葛亮と同じ役職である軍師中郎将に任命された。
劉備陣営の次の方策として、西の益州を獲ることが考えられていたが、劉備は主が同族の劉璋であることを理由にこれを渋っていた。龐統はこれを諫めて、益州を獲ることを劉備に決心させた。入蜀に際しては龐統が劉備に同行し、諸葛亮は荊州の留守を守ることになった。
益州に入った当初、劉璋が劉備たちの本心を知らずに歓迎の宴を開くなど無防備だったので、龐統はこの機会に劉璋を捕らえて、無用に戦うこと無く益州を取るよう劉備に進言した。しかし劉備は「他国に入ったばかりで、恩愛や信義はまだ現れていない。それはいかん」と答え、これを聞き入れなかった。その後、劉備軍は漢中の張魯と対峙する振りをして駐屯し、成都にいる劉璋をどう攻めるかを検討していたが、東で曹操と孫権が戦い劉備に対して援軍を求めてきたことを口実に、軍団を移動させることを考えた。
この時、龐統は劉備に対して、昼夜兼行で成都を強襲する上計・関所を守る劉璋の将を欺いて兵を奪い成都を目指す中計・一旦白帝城まで退く下計の三計を提示した。劉備は中計を採用した。
そこで劉備は龐統の策略を用いて、白水関を守る劉璋軍の楊懐・高沛を呼びつけて騙し討ちにし、白水関を占領した(劉備の入蜀)。
益州への侵攻の際、勝利に浮かれる劉備に対し「仁を掲げる御方が他人の国を奪って喜ぶとは、いかがなものでしょう」と、元々益州を取ることを勧めたのは龐統であるにもかかわらず、痛烈に劉備を批判した。
劉備は怒って龐統に退席を命じたが、すぐに自分の非に気がつき戻るように言った。龐統が何ごともなかったかのように席に戻ったが、劉備の方がかえって恐縮してしまい「先程の議論では私と君のどちらが間違っていたのか」と聞いた。
それに対し「君臣共に間違っていたのです」と答えたので、笑い話になったという。
劉備軍は、成都攻略の前に劉循・張任が守る雒城を包囲した。しかしこの包囲戦の最中、龐統は流矢(雨のように降りそそぐ矢、あるいは流れ矢)に当たって死去した。享年36。劉備は龐統の死を大いに悲しんだ。のちに関内侯を追封され、景耀3年(260年)9月には靖侯の諡号を贈られた。
『三国志』において龐統の伝は、法正の伝と同時に評されている。
陳寿の評にいわく「龐統は常に人物批評を好み、経学と策謀にすぐれ、当時、荊・楚の地域の人士から、才能に秀でた人物と謳われていた」
「魏臣に例えると荀彧に比肩する」とのことである。
三国志演義
成都攻略で、今通っている場所が「落鳳坡」と知ると、自らの最期を暗示する場所の名に驚愕し、直後に張任の配下兵達からの矢を浴びて戦死する。
登場作品における龐統
隻腕のイケメンで登場。片手で撃てる仕込矢を武器にしている。
真・三國無双シリーズ
恋姫†無双シリーズ
こちらを参照。
演者はヤクト・ドーガ