プロフィール
生年 | 176年(熹平5年) |
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没年 | 220年(建安25年) |
出身地 | 扶風郡郿県(現在の陝西省眉県) |
字 | 孝直 |
概要
196年、飢饉に遭ったがために、中央の争いに参画せずに益州を治めていた劉璋のもとに孟達と共に身を寄せる。
県令や校尉に任じられるが重用されず、劉璋に仕えていた同僚に誹謗されていたことから「劉璋の下では大事を成せぬ」と判断し、張松、孟達らと共に劉備を迎え入れることを共謀した。
初め劉璋に進言し、曹操と断交させ、劉備に接近させることに成功。
次いで漢中の五斗米道を率いる張魯の脅威を利用してその押さえとして劉備を益州に入れることに成功。
劉備の蜀盗りに劉璋が焦土作戦を取らぬことを見抜いたり、自ら降伏を勧める手紙を書いたり、様々な献策を行い、龐統、黄忠、魏延らと共にこれを見事に成功させる。
劉備が蜀を支配すると中央の政治にも手腕を発揮、劉備の策謀相談役となった。
諸葛亮らと蜀科を制定したり、名声のあった許靖の名を利用するなどした。
が、性格は最悪である。
陰湿でここまで質の悪い人物も少ない。「恩には恩を、仇には仇を」を地で行く人物で、過去の恩に大恩をもって報い、禍根には死をもって報復したという。それ自体は珍しいことではないが、法正の場合は度を越していた。
彼は蜀郡太守になると、その権力で私怨のある者を捕らえ、無実の罪で処刑するという蛮行を繰り返していた。犠牲者の中には、一言法正を批判しただけという者も含まれる。これは当時の常識から見ても完全な汚職行為である。
当然この行為に怒りを覚えた人物が、法正を除くべきだとして諸葛亮に談判するが「かつて主公(劉備)が公安におられたとき、北は曹操の強大さを畏れ、東は孫権に気兼ねし、近くは孫夫人が変事を起こさぬかと、いつも気に病んでおられたが、こうした進退ままならぬときに、法(正)孝直は主公(劉備)を補佐して翻然と羽ばたかせ、二度と他人の制約を受けないで済むようにしてくれた。どうして法正の好きにしてはならぬと禁止できようか?」
と後年泣いて愛弟子を斬った諸葛亮もその功績を評価していた。
張魯から曹操の下へと渡った漢中には夏侯淵と張郃が駐屯しており、法正は漢中攻略を進め、軍師となり従軍。一時形勢不利となりながらも適切な献策を行い、定軍山でも策により夏侯淵を黄忠に斬らせることを成功し、曹操の攻撃も全て策謀にて捌き切った。
軍事に関して、劉備は法正に絶大な信頼を置いていた。不思議と法正の言葉は素直に聞き入れるのである。定軍山で曹操と対峙している時、戦況が不利となり劉備の元に矢が飛んでくるようになった。劉備は曹操との直接対決で気が立っていたのか、とても撤退を聞き入れる雰囲気では無かった。そこで法正は劉備を庇うように矢面に立った。「孝直、矢を避けよ!」と言う劉備に、
「殿が危険に晒されているのです。私がつまらぬ男ならここで死にましょう。」
と語った。ようやく冷静になった劉備は「わかった。一緒に引き上げよう。」と語り撤退した
漢中からの撤退時、今回の劉備軍の作戦を改めて見た曹操は法正のことを知ると
「わしは有能な人材をほぼ全て集めたが、なぜ法正のみを手に入れなかったのだろうか」と悔しがった。
劉備が漢中王となると更に昇進するが、漢中戦での激務がたたってか翌年に病死。
劉備は何日間も彼を悼み、唯一の『翼侯』という諡号を送られている(関羽たちに諡号が授けられたのは劉禅の時代であり、劉備が諡号を授けたのは法正のみである)
死後夷陵の戦いが起こり、劉備が敗北すると「法正殿が生きて居たならば止められたであろうし、行っていても大敗は避けられた」と諸葛亮は嘆いたという。
つまり 、軍事に関しては劉備と法正こそが「水魚の交わり」であった。
このように同僚の諸葛亮とは性格が合わなかったが、公の立場(共に蜀の法律の編纂に当たった際など)にあっては互いを認め高く評価していた。
だだ、法正が善悪の判断無く、冷酷に判断が下せると言うのは、彼の軍略の冴えの一端を担っていたとも言える。
三国志を編集した陳寿は「法正は判断力に優れ、並外れた計略の所有者であった。しかし、徳性について賞賛されることは全然なかった」と評価し 「魏臣に例えると程昱・郭嘉に比肩する」、龐統と共に曹操腹心の軍師たちに匹敵するとのことである、最大級の評価を与えられた。
創作作品において
蒼天航路
「この法正が後曲におる限り、千里を駆けても陣は崩せまいぞ!」
感性的な諸葛亮とは真逆に、数多くの策から最善の一手を導き出す軍師。正史にあるような性格の悪さどころかかなり性格が良く、軍師嫌いの張飛も認めるほど。
漢中攻防戦にて大活躍し、曹操軍を散々に破り、曹操を追い詰めるが、陣中で倒れそのまま帰らぬ人となった。
尚、策にて曹操を死地に追い込んだのは賈詡と法正だけである。