生没年:170~207
字は奉孝
略歴
始めは袁紹のもとへ行くがその人柄に失望し、荀彧の推挙で曹操の参謀になり軍師祭酒に任じられた。
鳥丸などへの北方討伐や呂布・袁紹との戦いに多く進言し、特に劉備が曹操へ下った際には劉備は人傑であり早く殺すべきだと説くなど先見の明を持っていた。
曹操曰く「我が大業を成就させるのは、この男をおいて他にない」、郭嘉曰く「この方こそ真の我が主君だ」と評価しあうなど、しばしば曹操にとって最高の参謀の一人だったと評価される。
性格が傍若無人で品行が悪かった為に、同僚(特に陳羣)からたびたび弾劾された。
しかしそのような事を一切気にせぬ性格が曹操に気に入られ、その有能さとあいまって重用される。
ちなみに、彼を弾劾していた陳羣に対してもその公正さを評価、重用している辺りは流石曹操と言うべきか。
ちなみに、前述の袁紹を見限って出て行く際にも、その参謀で同郷の郭図たちに対して「お宅の殿さん、偉そうにしてるけど中身はカラッポだから、さっさと鞍替えした方がいいよ(意訳)」と抜け抜けと言い放っている。
そのような型破りなエピソードが多いことから、正統派の参謀である荀彧としばしば比較される。……後述の死に際も含めて。
烏丸征伐の際、風土病に罹り38歳の若さで亡くなる。
葬式には「奉孝は幕僚でも一番若かった。天下泰平の暁には後事はあいつに任せようと思っていたのに……」と、その死を悼んだ。
さらにはその一年後の赤壁の戦いで敗れた曹操は「郭奉孝がいてくれたら、このような無様な負け戦はやらなかったであろうに」と天を仰ぎ泣いたとされている。
陳寿の評にいわく、郭嘉を「程昱・董昭・劉曄・蒋済と並べて、荀攸と同じく謀略に優れた策士だったが、荀攸と違って徳業がなかった」と評している。
息子の郭奕も頭が良く有能で曹丕の太子文学になったが性格難でしかも父親同様に早世した。太子文学の同僚で友人だった王昶は「有能でも郭奕みたいな人間になっちゃいかん」と息子に教育していたりするあたり、郭父子の有能さとぶっ飛んだ性格は案外血筋だったのかもしれない。いわば変人の家系なのだろう。
版権作品における郭嘉
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竹中半兵衛…日本における病で早世した名参謀。素行不良の郭嘉に対し、こちらは主君の城を乗っ取るという大胆な事をしているものの基本的には優等生タイプ。