概要
揚州阜陵国成徳県の人。
後漢の光武帝の庶子である阜陵質王・劉延の子孫で、王族系の名門の出身。
許劭から冷静沈着で豪胆な人物だと評され、知謀に溢れながらも自らの手で奸賊を打つ武勇を持つ。
来歴
成徳侯・劉普の次男として生まれる。
7歳の時に臨終前の母から「あなたの父の側近に奸臣がいるから、成人したらそいつを討て」と遺言を遺され、13歳(当時の成人)の時に遺言通りにその側近を殺した。
魏書の劉曄伝では、揚州で大きな勢力を誇っていた鄭宝という人物が高貴な身分の自分を祭り上げて勢力拡大を狙っていた。だが、親交のあった魯粛から彼の危険性を知らせていたため、劉曄は鄭宝を酒宴に招き、隙を見て自らの手で鄭宝を斬り殺し、その軍勢を手に入れることに成功した。
その後、曹操が寿春の賊軍討伐に出陣し、揚州の人材を募った際に劉曄は志願し、参謀として数々の献策をおこなう。討伐完了後はそのまま曹操に仕えた。
曹操が張魯討伐を開始すると、劉曄は主簿に転じた。
漢中の険しい地形に曹操軍は苦戦し、曹操は撤退を考えていたが、劉曄は戦い続ければ勝算が見えて来るはずで、今撤退すれば追撃を受けて甚大な被害を被る危険性があるとして、曹操に戦いを続けるよう進言した。曹操は劉曄の進言に従い戦いを続け、張魯は敗走し漢中は平定された。
漢中平定後、劉曄は司馬懿とともに、益州を平定して間もない劉備をこの勢いに乗じて攻めるべきと曹操に進言したが、この意見は却下されている。
樊城の戦いで関羽が死に、ほどなくして曹操も無くなって息子の曹丕の代となると、蜀は呉に攻め込むかどうかを議論されていた。世論は「関羽が亡くなった今、蜀は呉に攻め込む力は無い」という見方が強かったが、劉曄は「関羽の敵討ちで必ず蜀は呉へ攻め込む」と断じた。そして、劉曄の言うとおりに蜀は呉征伐(夷陵の戦い)を開始し、呉の孫権は魏への臣従を申し入れるが、劉曄は「その場しのぎだから信用出来ないため、むしろこの機に呉を討つべき」と進言したが採用されなかった。そして、陸遜が蜀軍を破ると孫権は魏から離れた。
曹丕が死去し、その息子の曹叡の代になっても謀臣として重用された。
また、劉曄は初めて曹叡に謁見した際、他の廷臣にその人となりを尋ねられた時、「始皇帝や漢の武帝の風を持つが、この二人には僅かに及ばない」と評している。
ある時、曹叡が蜀の討伐を計画し、劉曄にそのことを打ち明けると劉曄は賛成していたが、退出してからは群臣に対して討伐に反対することを表明した。
これを知った曹叡は疑問に思い、劉曄を召し出しその理由を尋ねたが、劉曄はその時は何も答えなかった。後に一人で拝謁した劉曄は曹叡に「他国討伐は重大なる計画でございます。計画が実行されるまではその秘密を簡単に漏らしてはなりませぬ」と説き、国家機密の重要性を曹叡に諭している。
晩年はその性格を政敵に利用されて讒言されて曹叡の信用を失い、彼に疎まれたことに絶望し、発狂して死んだされている。