概要
三国志において官渡の戦い・赤壁の戦いと並んで時代の流れを決定づけた重要な戦いとして知られる。
背景
劉備軍が漢中において曹操軍を撃破し、それに呼応して劉備の重臣(演義では義弟という設定)で荊州を防衛していた関羽が曹操領へと侵攻した(樊城の戦い)。この時、劉備は孫権と同盟を結んでいたが、曹操は窮地を打開するべく孫権に荊州侵攻を促した。孫権は、曹操の要請を受け入れた。なぜなら、自分の息子と関羽の娘(本名は不明だが、後世において一般的に関銀屏と呼ばれている人物)の縁談を関羽に拒否されて、両者の関係に亀裂が生じていたからだ。
こうして西暦220年、孫権軍の呂蒙と陸遜の攻撃を受けた関羽は息子(演義では養子)の関平とともに捕らえられて処刑され、荊州南部は孫権領になった。
関羽の死の直後、曹操は病死。後継者の曹丕は漢の献帝から禅譲を受け、魏の初代皇帝となった。それに対抗するべく、関羽の死の翌年、劉備は蜀の初代皇帝となった。(孫権が呉の初代皇帝となるのは数年後。)
開戦
関羽を処刑されたことに怒った劉備は、孫権討伐軍を編成した。
しかし、ここで更なる事件が発生。劉備のもう一人の重臣(演義では劉備と関羽の義弟という設定)の張飛が家臣の張達と范彊によって暗殺され、両者は孫権領に亡命したのだ。
孫権は、蜀と和睦するべく家臣の諸葛瑾(劉備の重臣・諸葛亮の兄)に交渉を任せるが、失敗。そのため、蜀軍を迎え撃つべく陸遜を大都督に任命した。
当初は蜀軍が優勢だったが、油断していた。その隙をついた陸遜は、夷陵にて蜀軍に対して火計を仕掛け、敗北した劉備軍は撤退した。
こうして、孫権軍は夷陵の戦いに勝利した。
この戦いで、蜀軍は馬良などが戦死し、黄権などは退路を失って魏に亡命するなど、多くの人材を失った。
その後
孫権軍が蜀軍と戦っている隙に、魏軍は三方向から孫権領へと侵攻(濡須口の戦い)したが、孫権軍はそれを撃退した。
劉備の病死後、その後を継いだ劉禅は諸葛亮の活躍によって孫権との同盟を復活させ、再び共に魏に対抗することが可能になった。
三国志演義での夷陵の戦い
演義では蜀軍は75万の大軍勢を動員。関羽、張飛の息子である関興と張苞も仇討ちのために従軍する。その両者の活躍で初戦から破竹の勢いで呉軍を破って優位に戦況を進め、呉の猛将・甘寧を沙摩柯が射殺する。一方、劉備の失言に憤った黄忠が無謀な出撃をして戦死してしまうが、関羽を捕らえた潘璋を関興が討ち、その配下だった馬忠は関羽を裏切った糜芳と傅士仁(正史では士仁)に寝首をかかれ、その馬忠の首を持って投降してきた糜芳と傅士仁を劉備は許さず自らの手で処刑する。
後に孫権は事態を重く見て和睦のために張飛を暗殺した張達と范彊を張飛の首とともに送り返し、二人は張苞によって処刑される。
その後は正史通りに火計を受けて蜀軍は大敗して撤退し、陸遜は劉備を追撃したが、諸葛亮発案の石兵八陣に掛かって窮地に陥るも、諸葛亮の義父の黄承彦の案内によって脱する。これ以上の進軍は危険と判断した陸遜は引き返し、魏の攻撃に対処することになっている。