概要
三顧の礼とは三国志で劉備が諸葛亮を臣下として迎え入れるために三度も赴いたことから生まれた故事成語の一つで、目上(年上、上司)の人が目下の者(年下、部下)に何度も出向いてお願いすること。
故事
蜀を興した劉備の下には、彼の人徳に引き寄せられ、勇猛果敢な武将が数多く揃った。しかし戦略に長けた「軍師」はおらず、この先の戦いに不安を感じていた。
そこで専属の軍師を探すことを決めると、当時軍師を兼任していた政務官の徐庶から「諸葛亮」という男がいることを聞かさせ、劉備は彼の勧誘に踏み切る。だが臥龍とまで称えられる諸葛亮は、隠棲して人と滅多に合わないことで知られ、説得を頼まれた徐庶は劉備自ら赴くことを勧める。
このとき劉備は既に47歳に達し、対する諸葛亮は27歳と大きな歳の差があった。
儒の教えに則するなら、本来は諸葛亮が劉備の招聘に応じて出かなければならないが、劉備は徐庶の進言を受けて関羽・張飛を供に諸葛亮の住む山庵へ向かった。ところが一度目と二度目は留守、三度目は昼寝の最中で三人の訪問に気づかずにいた。応対した諸葛亮の弟・諸葛均が起こしてこようかと尋ねると、劉備は「起きるまで待とう」とその場に座って動かず、諸葛亮の起床を待ち続けた。
起きた諸葛亮は弟から劉備の来訪を聞いて流石に気まずくなり、ようやく劉備の前に姿を現す。諸葛亮は「曹操の天下平定は時間の問題です。私では力になれません」と誘いを断った。すると劉備は「曹操の横行を許してしまった自分の不甲斐なさが悔しい」と、人目も憚らず涙した。
その姿に諸葛亮は「彼は真に漢の未来を憂いている」と感銘し、出仕を決意したのだった。