孫皓「孫呉など滅びてしまえばいい!」
概要
陸遜など多くの有能な人材を失い、孫呉の命脈を削ることとなった事件。二宮事件や南魯闘争とも呼ばれる。その前に発生した呂壱事件と共に晩年孫権の失敗の一つとされる。
ちなみに正史と違い三国志演義では、長男・孫登が第一皇子、三男・孫和が第二皇子、七男・孫亮が第三皇子、六男・孫休が第六皇子という設定である。演義では次男・孫慮、四男・孫覇、五男・孫奮は登場せず、この件は基本的に省かれる。
早い話が呉の後継者争いと、それに伴う重臣たちの政治争いである。皇太子だった孫登が病死したため孫権はその弟・孫和を新たな皇太子としたが、よりにもよって下の弟・孫覇も同等に扱ってしまう。重臣たちも孫和派と孫覇派に分かれてしまい、孫権に対する諫言・讒言合戦が行われてしまい国力を大いに削ぐことになった。
孫家の後継者争いなだけあって孫姓の人がたくさん出てくるため、慣れないうちはわけが分からなくなる。
登場人物
孫権と子どもたち
ご存じ呉の初代皇帝にして全ての元凶。 晩年老害化が目立つとされる 孫権 だが、この事件は呂壱事件以上の人生最大の汚点。 最後の最後に一番とんでもないことをやらかしてしまった。 やはり孫家DQNの血は伊達ではなかった…
孫権の長男。正妻・周妃は周瑜の娘。生母の身分が低かったが正妻だった徐夫人の養子となったことで嫡子の地位を固める。大臣たちの人望を集めたという。のち皇太子とされたが西暦241年に孫権より先に病死してしまった。 孫登は孫和と仲がよかったため、孫和を後継者とするように遺言を残していたが…。
孫権の次男。妻は潘濬の娘。彼も優れた人物だったが、西暦232年に20歳で早世した。兄よりも早死にしたため、二宮の変に関与していない(というより、関与しようがなかった)。
孫権の三男。生母は琅琊王夫人。正妻・張妃は張承(張昭の長男)の娘。孫登の死後、前述の遺言と次男の孫慮が既に亡くなっていたこともあり、新たな後継者として擁立される。しかし、その後孫権からの寵愛が薄れていき、弟の孫覇が寵愛されるようになる。その裏にはある女の影が…。 孫権の病が重くなり、争いの真相に気づいて孫和を許そうとしたときは、孫弘や孫魯班はこれを阻止したという。悪名高い孫皓(後の第四代皇帝)の父でもあるが、彼自身は学問が好きで、臣下の諍いを良い形で仲裁するなどまともな人物だった。
孫権の四男。生母は謝姫。妻は劉基(劉繇の子)の娘。孫権から魯王に封じられ、三兄・孫和と同等の扱いを受ける。そのため両者の間で後継者争いが激化していき…。 余談だが似た立場であった魏の曹丕と曹植は、あくまで取り巻きたちの勢力争いで本人たちはさほど嫌い合っていなかったとする説もあるが、孫覇は積極的に後継ぎの座を狙っていた。
孫権の五男。生母は仲姫。妻は袁燿(袁術の子)の娘。二宮事件には全く関与していない。正史ではのち孫亮に対し謀叛未遂事件を起こしたこともある。最後は孫策の孫・孫奉とともに孫皓に粛清された。
孫権の六男。生母は南陽王夫人。正室・朱皇后は朱拠(朱桓の一族)の娘。生母が琅琊の王夫人に皇宮を追い出されていたことに加え本人自体も孫権から全く期待されていなかったこともありここでは空気。のちの三代目皇帝。
孫権の七男。生母は潘皇后。正室・全皇后は全尚(全琮の族子)の娘。詳しくは後述するが、結局2人の兄のどちらでもなく彼が跡を継ぐことになった…。 聡明な人物として一般的に知られている。が、皇太子に指名された当時はなんと8歳! 孫権が死んで皇帝に即位した時点でもわずか10歳! 孫権ェ…。のち孫綝に皇位を廃されたが、その孫綝を殺害した六兄・孫休に危険視され自殺に追い込まれた。時にわずか18歳。
孫権と歩夫人の娘で姉の方。周瑜の長男・周循に嫁いだが死別。のち全琮へ再嫁し全公主と呼ばれるようになった。 三国志大戦では字の大虎として登場。大流星の儀式で覚えている人も多いのでは? 母や妹と正反対の性格で二宮の変では孫和と対立して孫覇に与する、孫覇は死を賜った後、末弟の孫亮に与した。甥の孫峻と密通しや妹さえも死においやる悪女っぷりを見せつけた。最後は孫綝暗殺に失敗し予章へ配流された。
孫権と歩夫人の娘で妹の方。朱拠へ嫁し朱公主と呼ばれるようになった。 三国志大戦では字の小虎として登場。 姉と正反対の性格の持ち主だったが朱拠が孫和派に属していたため姉に憎まれる。孫権の死後、姉に唆された孫峻により、夫共々処刑されてしまった。
孫権の妻たち
将軍時代の正妻。早く離婚していたが、孫登の養母であったため孫登らは彼女を皇后にすることを望んでいたが、嫉妬深い性格を孫権から嫌われ立后することを拒否された。歩夫人逝去前には亡くなっていたらしい。
皇后にして孫亮の母。孫権の妃の中でも年が若かった。絶世の美女であったため孫権の寵愛が深かった。孫和と孫覇の間の紛争に不満を抱いた孫権は孫亮に皇統を継承させる意思を持っていた。孫権が反対勢力を弾圧した後、母子はそれぞれ皇后と皇太子となった。が、孫権の看病疲れから自身も病臥していた時に暗殺されてしまった(動機は諸説ある)。
贈皇后で歩隲の一族。孫権の将軍時代から寵愛を受けたが、即位後の孫権は孫登に遠慮して立后せず、生涯のライバル徐夫人の没後も皇后に昇格しなかった。二宮の変の前に既に逝去。没後に皇后を追贈された。
大懿皇后(追贈)。孫和の母にして孫皓の祖母。孫和が皇太子になったため妃たちの筆頭となり、一時に奥向きのことを取り仕切っていたが、潘皇后のように正式な皇后として重んじられることはなかった。全公主の譖言によって最期は憂死した。この後の孫和も寵愛を失い、のち南陽王に降格されてしまう。
敬懐皇后(追贈)。孫休の母。末子(孫亮が生まれる以前)を儲けるも孫権の注目を浴びなかった。琅琊王夫人が重んじられるようになったこともあり、宮中を出てかつて劉備が拠点にしていた荊州の公安に居住した。孫休が皇帝に即位した頃にはすでに亡くなっていたらしい。
妃嬪の一人。袁術の娘、袁紹の従姪または姪。孫奮の妻の叔母でもある。正史では「人徳が高い」評価を得ており孫権から寵愛を受けた。歩夫人死去後に皇后になる事を懇願されたが、子がいなかったため断っている。 潘皇后に中傷された人物として名を挙げられているが、正妻(皇后)または国母の地位を得られなかったため、孫権の妻として立伝されたことはなく以後の経歴も不明である。
- 謝姫
孫覇の母。孫覇が死を賜った時は連座しなかったものの、孫皓が皇帝になってから孫覇の件を蒸し返され、孫の孫基や孫壱と共に配流された。
臣下たち
- 孫和派
その他多数
- 孫覇派
その他多数
諸葛家のように親子が分裂したケースもあったり、施績と諸葛融のように同じ派閥に属しながら不仲であるなど複雑な様相である。
経過
前史
広義的にはこれらの問題も絡んでいるとされる。
孫権の皇后問題
孫権は徐夫人を正妻にしていたが、嫉妬深い性格に辟易し212年頃には廃していたという。次に寵妃となったのは歩夫人で、2女を産むが、孫権の将軍時代が終わるまでも継室となったことはなかった。曹操・劉備・曹丕の死後、呉の皇帝になった時に皇太子・孫登や群臣たちから孫登の養母・徐夫人の立后を求められる。しかし、徐夫人の復帰の件について孫権は首を縦に振らなかったため正式の皇后は空位のままになる。それから10年の間に徐夫人も歩夫人も逝去したことでこの問題は有耶無耶なままで終わったが、このことはのちの孫魯班の行動に繋がっていく。
呂壱事件
孫権は近臣の呂壱を監察官に起用したが、呂壱は恣意的に権力を濫用し老臣の顧雍までが無実の罪で逮捕寸前の事態になってしまう。見かねた潘濬が呂壱暗殺を考えるなど一触即発の事態に陥るが、結局呂壱の処刑で一段落となった。しかし、このことで孫権と家臣団の信頼関係にヒビが入ってしまう。
芍陂の役と孫登の死
241年、孫権は揚州・荊州の二方面より侵攻を開始し全琮が寿春に、諸葛恪が六安、朱然が樊城、諸葛瑾・歩隲が柤中を目指して軍を進めた。一方、蜀の大将軍・蒋琬は水路で上庸方面を衝く計画を立てたが反対者も多く実行出来なかった。
揚州戦線は諸葛恪が六安を攻撃をしている間に全琮は寿春方面に侵攻する手筈であった。しかし、全琮は芍陂において孫礼・王淩(後漢の司徒・王允の甥)と戦い退却。その後、張休・顧譚・顧承・全端・全緒の奮戦もあり魏の逆侵攻を防いでいた。
荊州戦線では樊城に軍を進めた朱然は城を包囲したが胡質と司馬懿に防がれた。柤中方面軍は諸葛瑾が発病して軍の指揮を取れなくなる事態に陥った。
この最中、5月に皇太子・孫登が34歳で死去するという大事件が起こり呉軍は全て撤兵した。さらに同年閏6月には諸葛瑾も病死している。
この「芍陂の役」の論功行賞において張休・顧承が戦功第一とされたことに全端・全緒が猛反発し遺恨を残すことになった。これに加えて張休VS孫弘、全奇VS顧譚、吾粲VS楊竺といった以前から存在していた臣下同士のいざこざも絡み合い複雑な事態になっていく。
事件
狭義的にはここからが本番である。
孫魯班の暗躍~王夫人と孫和の受難
孫権は孫登の遺言もあり孫和を新たな皇太子に立てる。それに伴って孫和の生母である王夫人を皇后に立てようと、重臣たちが孫権に働きかけた。しかし孫権に即座に断られた。
いずれにしても、皇太子の母として王夫人はかなり皇后に近い位置にいて、それが気に食わない女が一人孫魯班である。 実は魯班の母・歩夫人は前述のように皇后になれなかったという過去があり、他の女が皇后になることが許せなかったのである。(歩夫人本人は親戚たちと宮人たちが自分を皇后と呼ぶことを黙認していたが、先の皇太子孫登の反対で結局正式な皇后にはなれなかった)
そこで魯班は孫権にあることないこと吹聴するようになる。
例えば、ある時孫権が病床に臥せってしまい、孫和が宗廟で快復祈願をすることになった。
その際にちょこっと席を外して妻の叔父である張休の下に立ち寄ったのだが、それを聞いた魯班はそれを誇張して、
孫魯班「孫和は父上がご病気なのに、宗廟で祈らず叔父と謀議ばかりしております」
さらに
孫魯班「王夫人は父上の病気を喜んでおります」
と讒言し、これを聞いた孫権は怒りを爆発させ、孫和を疎んじるようになる。 その後も魯班は讒言を繰り返し、孫権の寵愛は孫和から孫覇に移っていくようになっていった。
孫和派粛清劇~陸遜憤死
やがて孫覇は孫和とほぼ同等の扱いをされるようになり、家臣たちの間で太子廃立が行われるのでは?と囁かれるようになる。この頃、劉基・張昭・潘濬・諸葛瑾ら孫権のブレーキ役たちはこの世になく、243年には顧雍・闞沢・薛綜らの長老たちも立て続けに没したため争いはさらに激化した。
これに目をつけたのが呉政権の非主流派たちである。 元々呉は地方豪族の寄り合い所帯みたいなものであり、言わば連立政権のようなものであった。 陸家や顧家など政権の主流派が孫和派に属していたわけだが、ここで孫覇が後継ぎとなれば非主流派の自分たちが政権の中枢へ行けると考えたわけである。
非主流派's「「「これは…チャンスやん?」」」
孫権は孫覇の賓客・楊竺の言を受け、孫覇の立太子に前向きになりつつあった。これを陸胤から知った孫和や太子太傅・吾粲はかなり危機感を抱いた。そして吾粲や顧譚は孫権に嫡庶の分を説き、孫和の正統性を主張した。
さらに、孫和と吾粲は陸胤を介して荊州に在った陸遜にも協力を求め、陸遜もそれに応じて孫権に諫言の手紙を送った。しかしこれらの行動は孫覇自身や孫覇派の反発、孫権の不興を買い吾粲は讒言を受け処刑されてしまった。
同時期に全琮と全奇は芍陂以来因縁ある張休・顧譚・顧承に対して罪を着せて交州へ流刑にしてしまった。のち張休は孫弘による偽の詔で自害させられ顧兄弟も交州において早世した。時に張休41歳、顧譚42歳、顧承37歳。
このため全琮は陳寿に「世間に謗られ名誉を失った」、裴松之に「論ずる必要もない悪人」などと指弾されることになったが、全琮は元々慎重派で陸遜とは良好な関係だった。しかし、全奇が孫覇に肩入れしていることを陸遜に非難された手紙を送られてから絶交し本格的に孫覇に肩入れするようになった。
事態のさらなる悪化を受けて陸遜は建業に出向いて直接孫権を説得しようとした。それに対して孫覇派は孫権に讒言し、楊竺に至っては陸遜に関する20カ条もの疑惑事項を告発するという有様だった。
あろうことかこれを真に受けた孫権は陸遜に何度も問責の使者を送りつけ
孫権「とりあえず左遷」
陸遜「そんな馬鹿な……」
全琮「お前のせいだ」
建国功臣であった陸遜は憤死。
孫魯班「計画通り」
さらなる泥沼化~喧嘩両成敗
陸遜の死もあり孫覇派が一度は主導権を握るものの、全琮・歩隲の重鎮が相次いで死去してしまう。 これに乗じて孫和派が一転攻勢! 汚名返上! ……と思いきや、この機会を活かすことができず、結局状況はさらに混迷化し、泥沼の様相を呈してしまう。 ちなみに孫権は、この頃になると自分が元凶のくせに2人の息子の争いに嫌気が差していた。
結局孫権は孫和を廃立し南陽王に降格、孫覇には自害を命じ、当時8歳だった七男・孫亮を皇太子とした。 さらに孫覇派で積極的に工作に参加した全奇・孫奇・呉安たちを誅殺した。孫和派の方も朱拠は棒叩きの上に左遷され任地へ行く途中で張休同様孫弘による偽の詔で自害させられ、その他孫和の廃立に反対した者たちがばんばん処刑された。
その後
この政権争いは、幕引き後も呉に悪い意味で大きな影響を残している。
彼が左遷した臣下たちは呉の建国に大功のあった重要な人材やその子や孫たちである。 それを内輪揉めで次々左遷したり処刑したりしたため、呉の屋台骨は一発でガタガタになってしまったのである。
孫権の死後、当時わずか10歳の孫亮が皇帝に即位したものの、当然まともな政治など行えるはずもなく、側近の諸葛恪が実権を握ることとなった。これに対し孫弘は諸葛恪も除こうとしたが反対に討たれてしまう……が、その諸葛恪は合肥新城攻めで大失敗。多大な損害を出して失脚した諸葛恪を元孫覇派だった孫峻が孫亮と組み誅殺し、孫和夫妻(妻の母が諸葛恪の妹)を自殺に追い込んだ。
これでやっと落ち着いた…と思いきや、今度は孫登の子・孫英や孫皎の子・孫儀らが孫峻を暗殺しようとして失敗。 孫峻急死後、その権力は従兄弟の孫綝へ引き継がれたがこれに憤って反乱を起こした呂拠と滕胤を滅ぼした。が、この頃には即位時は幼かった孫亮も大人になり、自分で政治をとり行おうとする。
意のままにならない孫亮が邪魔になった孫綝は孫亮を廃し、兄の孫休を擁立。魯班は予章に流され全一族も全緒死後の所領争いなどいろいろあり没落。その孫休に孫綝が殺され……と、内紛は長い間続くことになった。さらに271年に陸抗と晋に寝返った歩闡が戦った西陵城攻防戦は奇しくも二宮事件で因縁ある陸家と歩家の対決という構図になっている。
余談
魏でも司馬懿父子が曹爽一派を排除した「高平陵の変」以降は王淩・毋丘倹・諸葛誕が起こした所謂「淮南の三叛」に司馬師暗殺計画・曹髦殺害事件・鍾会の乱のようにいろいろあったが、司馬一族を中心とした政治体制そのものがぐらつくようなことはなく、国力自体はキープしのち、魏から晋に移行した。
蜀は呉とは仲がよく意気軒昂ではあったが、呉と比べても国力が小さすぎた上に、姜維の北伐は成果をほとんど挙げられず反って国を疲弊させてしまい263年に魏に攻められ滅亡した。そして元々魏は呉の3倍近い国力を持っていただけに、この争いは呉が魏に勝つかすかな可能性を封じてしまったとさえ言われているのである。
また、三国志最悪の暴君として知られる孫皓は、父を大変敬愛していたようで帝位についたあと何度も父を祀っていたという。 孫皓が暴政に走ったのは、父・孫和が一度は皇太子として立てられながらも理不尽に廃立され、祖母である王夫人、父の正妻・張夫人共々悲劇的な最期を遂げてしまったことが原因であるとも言われている。
三国志で後継者争いといえば、後継ぎに悩む曹操に賈詡が例として挙げた袁紹と劉表が有名であるが、タチの悪さはこちらの方がはるかに上である。
唯一の救いは、孫権が後に陸遜に対する誤解を解き、陸遜の次男・陸抗を取り立て陸遜に対する自らの行いを謝罪したことくらいだろうか。 その後、陸抗が呉末期の大黒柱となり、死ぬまで斜陽の呉を支えたことを考えると、孫権にもまだ人を見る眼は残っていたのかもしれない。
演義では、全公主と孫和の不和に言及する、それ以外の事はすべて省略した、ある意味優遇と言えるのかもしれない。