概要
揚州会稽郡山陰県の人。
謙虚で慎み深い性格とされ、深い見識を持っていた。
貧しい農民の出だが、苦学して優れた学識を身に付ける。のちに孝廉に推挙されて銭唐県の県長となり、次いで郴県の県令を務めた。やがて孫権が驃騎将軍になると招聘を受ける。
孫権が即位すると、闞沢は尚書となり、嘉禾年間には中書令に遷り、侍中を兼務した。
孫権の子の孫和の教育係を務めていた。
243年冬に死去。
三国志演義
演義では、赤壁の戦いの時に登場。
黄蓋が周瑜に反抗したことで棒叩きの刑に処されたのを見て、これは何かの作戦ではと勘付いて黄蓋を見舞いに行った時に問い質して黄蓋から「苦肉の計」と明かされると、自らもそれに協力し、さらに甘寧にも協力させて策謀を巡らす。その際、間者として降って来た蔡瑁の従弟の蔡和・蔡中を欺くために黄蓋達が周瑜に不満を抱いて裏切ろうとしていると思わせる。その後、黄蓋の使者として曹操の元へ赴き、最初は疑われて信用されず殺されそうになるが、自らの弁舌と胆力で丸め込むと、そこに蔡和達からの手紙が届いて、黄蓋達の寝返りが事実だと知った曹操から信用される。
夷陵の戦いでは、相次ぐ敗戦にうろたえる孫権に対し、陸遜を大都督に任命するよう推挙する。当時、過小評価されていた陸遜を大都督に任命することを張昭・顧雍・歩隲らが反対していたが、闞沢はそれらを弁舌で退けている。