概要
揚州呉郡呉県の人。
若き頃は蔡邕の下で琴と学問の伝授を受けた。心を集中させ乱されることがなく、頭の回転が速かったため、蔡邕にその非凡さを気に入られ、将来大成するだろうとの評価を受けた。
後に孫権に仕えると、孫権は会稽太守に就任するが自らが任地に赴かず、顧雍を郡の丞に命じて太守の仕事を代行させた。顧雍は会稽で反乱が起こった時、武装してそれをいち早く鎮圧したことから民衆・役人に慕われた。数年後、孫権の元に戻り、左司馬となった。
225年に初代丞相の孫邵が亡くなると、重臣の大半が最長老の張昭を丞相に推薦したが、孫権は顧雍を二代目の丞相に任命した。
顧雍は丞相になると、公平さを第一とする人事を行ない、自らの感情に左右されることがなかったという。時には、民衆の間に入って意見を求めることもあり、時宜に適した方策があると、すべて孫権に上聞した。建策が用いられたときはすべて孫権の手柄とし、用いられなかったときはそのことを決して他言しなかった。このことから孫権には重んじられたという。公の場で発言するときには言葉や顔つきは穏やかであったが、正しいと思うことは遠慮せず意見した。
以後、18年も丞相の地位にいた(呉の歴代丞相では最長)が、243年に丞相在任のまま76歳で病死。