概要
周瑜、魯粛の後を継いで軍司令官となり、長年の懸案であった荊州問題で、蜀の関羽を破り、呉の領土と化している。関羽を征伐したのち、ほどなく病死する。
生涯
孫策の配下である鄧当が死去すると、その義弟である呂蒙が軍を引き継ぎ将軍となった。
建安5年(200年)、孫策が死去すると、その弟である孫権に仕えた。
建安13年(208年)、赤壁の戦いで周瑜や程普とともに戦って、曹操を破る功績を挙げた。さらに進軍して夷陵を攻め、曹仁を大敗させた。
建安17年(212年)以降、曹操は再び南に野心を抱き、幾度も呉領を攻めてきたが、そのたびに呂蒙が防衛司令官として事に当たり、巣湖水域に防壁を築いたり大規模な弓兵を用意したりして曹操軍を退けた。
建安20年(215年)、関羽と孫権が荊州を巡って不仲になると、魯粛の命を受けた呂蒙は軍を率いて長沙・桂陽を占領した。
魯粛が死去すると呂蒙がその後任となった。
建安24年(219年)、孫権は荊州に駐屯する関羽に不満を募らせていた。呂蒙は的確に情勢や勢力図を分析した上で「曹操より関羽を叩くほうが先決」と進言した。
この頃、関羽は孫権やその部下に傲慢な態度を取るようになり、それに対して孫権や呂蒙は表面上は友好的な態度を示しつつも、裏で関羽を討伐する策を練るようになる。
関羽が呉軍に対して油断し、樊城の曹仁との戦いに集中しているところを狙い、呂蒙は陸遜や虞翻を率いて荊州を攻め込んだ。その際、呂蒙らは商人に偽装し、見張り役から捉えたので関羽勢は呂蒙の攻撃に気づくことができなかった。さらに、呂蒙は関羽軍の兵士の家族を保護し、善政を敷いたので呉軍に降伏する者が相次ぎ、関羽は孤立した。
この後、孫権は朱然と潘璋に命じて関羽を捕らえ、これを処刑した。
まもなく呂蒙は病床のつくようになり、孫権は手厚く呂蒙を見舞ったが、219年末に死去した。享年42。孫権からの贈り物はすべて返還し、葬儀もまた簡素にするよう遺言したという。
人物
呂蒙の家は貧しく学問に触れる機会もなかった。そのため、書類なども部下に口述筆記させていたが、主君・孫権から「歴史を見渡して見識を広めてみてはどうか」と諭され一念発起し、知性を兼ね備えた将に成長した。豊かな学識を備えた人物となったのを見た魯粛が「呉下の阿蒙に非ず」(もはや呉の蒙ちゃんとバカにできないな)と感嘆し、呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」(士たるもの、別れて三日もすれば大いに成長しているものであって、次に会う時は目をこすって違う目でみなければなりません)と答えた。
武将として強かっただけでなく、占領軍の指揮官としても公明正大であったとされ、荊州を占領した際は微罪であっても罪を犯した自軍兵士を処刑した。
甘寧や凌統の不仲を仲裁したり、横暴な甘寧の行動を諫めたり、孫権から嫌われていた虞翻の面倒を見たりと、人間関係に善処できる人物であったことが窺える。
『三国志』の著者である陳寿は評の中で「呂蒙は勇敢であり、謀をよく巡らして決断力があった。軍略の何たるかをはっきり理解していたのである。郝普を欺いて関羽を捕らえた事は、その最も妙なるものである」と称えている。
孫権は陸遜との会話の中で「若い頃の子明(呂蒙)は、苦難を厭わぬ、果敢で胆の据わった人物であるが、それ以外に評価する部分は無いと思っていた。だが、成長するに及んで学問を身に付け、その計略は奇抜となるに至った。言論の渙発さでは公瑾(周瑜)に及ばずとも、これに次ぐ者といえよう。関羽を捕らえた事においては子敬(魯粛)に勝る」と評している。
呂蒙は後世、名将として語り継がれており、現代の中国でも、知勇兼備の名将として呂蒙の名が挙がることが多い。
フィクションにおける呂蒙
三国志演義
呂蒙の死については「演義」ではこれを関羽の呪いとし、祝宴の最中に立ち上がった呂蒙は、孫権を口汚く罵ったのち「我は関羽!」と叫び、体中の穴と言う穴から血を噴出して死んだとしている。
蜀びいきのこの作品ではあるが荊州占領時の呂蒙のエピソードに頁を割いており、呂蒙が盗みを犯した自軍兵士が同郷の者であったことを思い出すセリフを描き、同郷同姓の者はなるべく殺さないという誓いも語らせたうえであえて断罪するシーン、さらにその公平な処罰のあり方が民心にもたらした効果の大きさを描写している。そして関羽がその呂蒙の手腕に内心恐れを抱くシーンまである。また死についても吐血シーンが1コマ描かれたのみで、前述した演義の狂った描写はなく、周囲が関羽の死の直後だったため「関羽の呪いではないか?」と噂する程度にとどめている。
呂蒙(真・三國無双)を参照
蒼天航路
呉の将たちが呂蒙を弁護するシーンがあり、武術は拙く荒っぽい、三つ以上のことを同時に考えると鼻血を吹く、など若さが語られている。しかしそれでも一緒に戦うとも言われており、士心を得ていることが描写されている。
三国志大戦
呉絡みだけでも孫堅旗揚げから晋との争い・滅亡まで幅広く扱っていること、そして本人が呉の中心メンバーの一角であることから、阿蒙時代から晩年の文武両道の将としてまで幅広くカード化されている。『新版』において不良漫画(『ギャングキング』)コラボカード=阿蒙どころかヤンキー扱いとは言え知力2にされたこともあれば、『3』では周瑜や陸遜と並び軍師カード枠でも登場している。
号令(全体強化)を持っていることも多く(特に晩年期がモチーフのカード)、他の著名武将同様デッキを作りやすい。
恋姫†無双シリーズ
真名は亞莎。リンク先参照。
ちなみに初登場は二作目の真・恋姫†無双だが、前作のいわゆる無印版でも登場しなかっただけで存在していたようである(亞莎自身ではないだろうが)。
一騎当千
呂蒙子明を参照。
SDガンダム三国伝
呉下の阿蒙のエピソードが描写されている三国志演義作品は多いが、呉下ですらない阿蒙が出てくるのは三国伝アニメ版くらいであろう。
1982年10月2日よりNHKで放映された『人形劇三国志』では、呂蒙の扱いがひどく、「呂蒙と呼ばれる何か」と言われた。
敵軍に対しても公正明大な指揮官であった呂蒙だが、この作品ではヒヒ爺であるうえ関羽を捕らえるために荊州の民衆を捕らえて関羽の前で虐殺し、関羽を騙し打ちにして嬲り殺す。最後は自分のものにしようとした赤兎馬が滝に飛び込み、道連れになって死んでしまう。
名作と呼ばれる『人形劇三国志』であるが、呂蒙のファンからは残念な作品となっている。
吹き替えCV:成田剣
赤壁の戦いから周瑜→魯粛の指揮下として活躍。従軍するうちに知略を身につけ、魯粛の死後に後任の大都督として孫呉を支えた。
血気に流されやすく特に自軍に傲慢な態度をとる関羽に強い不快感を抱き、荊州を取り返した後に孫権からの指示を無視して関羽を追撃し自害に追い込んだが、孫権の怒りを買い表向きは病死という形で毒殺された。